2016/10/03

英語!抱腹絶倒、滂沱(ぼうだ)落涙の英語オンチ物語

われわれ日本人は、なぜ英語ができない


かなり以前のことである。ある日本のメディアの女性キャスターがブータンの奥地の村落を訪ね、山村のごく普通の民家に宿営するというドキュメンタリー仕立ての民報のテレビ番組があった。そこで、おそらく小学校3年生くらいと思われる現地の女の子と同宿して、現地の暮らしを紹介するという筋書きだった。峻険な山並みと谷筋が交錯し、家々をつなぐのはヒトがかろうじて歩いていけるだけのか細い道だけだ。日本でいえば、北アルプスの山小屋を訪ねるというような風景だ。

ところが、ほんの少し進行したところで、がく然とする事実に直面することになる。なんと、女性キャスターが手繰るたどたどしい英語に対し、その女の子は、驚くべきことに流ちょうな英語でよどみなく話しかけたのだ。話すことに何の不自由さも感じさせない。おそらくは日本のそこそこの大学を卒業して放送の業務についたのであろうキャスター氏は、ああ、まったく歯がたたない!

そして、見ていてまことに不愉快なのは、その女性キャスターがあくまで相手の子どもを、僻地に住む未開で素朴な山村の住民と決めつけて、その子がかなりのスピードで話しかける英語にまったく向かい合う姿勢が見られず、取り合わない(取り合えない)ことだった。まるで「こんなことは、ありえない」と言わんばかり・・・・・・。

おそらくは、まったくの想定外だったのだろう。キャスター氏の望んでいたのは、まさに「世界のはて」の、文化果(は)つる未開な集落での、いわゆる『原住民』的な対象を取材するという、上から目線の対応だったのだろう。とうの小学3年生嬢は「何で応えてくれないのだろう」と言わんばかりに、キョトンと当惑している。

はっきり言えることは、あの女の子はその翌日にニューヨークに引っ越しても話すことに何の問題もないが、 あの女性キャスター氏はできないということである。こんなことがなぜ起きるのか。

その昔、ブータンでは多数の現地語が存在していた。つまり、となり村へ行くために谷筋一つ越えれば、まったく言語が通じないという有り様だったのだ。この地方を植民地として進駐した宗主国の英国は効率的な支配を確立するためEnglishを公用語とし、学校教育も英語で行うこととした。つまり、あの小さなかわいい女の子の通う山の小学校では、あろうことか、すべての授業が英語で行われていたのだ。

そして、なんと日本では現代の大学においてさえ、ああ、今だに「現地語」で講義が行われているというのに...。

日本の大学は、はたしてUniversityなのか


この項目で述べることは、そのほとんどは、スイス在住のある世界的に著名な科学史研究者の主張・学説である。しかしながら、この先生、このことを論文にも書かず、著書にもしていないので、通常の文献引用という形式を取ることができない。したがって、ここではこの先生の名前の公表を差し控える。ではなぜ書けるのか? それは筆者が直接にご当人から長時間、公表を前提としないテーマとして取材したからである。(ええ、もちろん「英語」で) だから文責は筆者にあると考えていただきたい。 書いた内容の校閲も受けていないだけでなく、内容がきわめて重大であること、さらに日本の識者、研究者もほとんど見過ごし、言及していない事項であるからだ。

まず、日本の大学がuniversityと称するなど、下世話でわかりやすい言い方をあえてすれば「ちゃんちゃらオカしい」のだという。universityは、universeの派生語であり、universeは「宇宙」「普遍」を意味する。だから、universityたるものは、「宇宙的に普遍」でなければならない ―― それなのに日本では大学の講義が日本語という「現地語」で行われているが、これはuniversityの定義に反する ―― こう言いたいのだ。

古来、学問、とりわけ科学は常に普遍をめざし、その時代のもっとも普遍的な言語で行われてきた。 ギリシャ時代では周辺国をふくめてギリシャ語、ローマが覇権をにぎってからはラテン語もしくはギリシャ語で、これはガリア、ゲルマニア、ブリタニアなどの蛮族が住む地域でも当然とされた。エジプトのアレキサンドリアには、これらの言語によるぼう大な文献を収蔵した大図書館が存在した。これが世界標準なのだ。ちなみに初期のキリスト教聖書は、ギリシャ語で書かれ、また宗教改革まではラテン語で書かれたテクストのみが存在し、「現地語」に翻訳することさえ許されなかった。

現在でもたとえば、スウェーデンの大学ではスウェーデン語で講義は行われない。英語である。その時代の覇権的な言語でおこなうべきなのだ。しかるに、日本では「現地語」たる日本語で講義が行われているが、これは歴史的・国際的な見地からして正しくない。かの先生は、「日本の大学は、大学ではない。専門学校だ」と言い切る。脳天に一撃、喰らったような衝撃だ。

東京の西の郊外に位置する国際的であることを標榜する(した?)、とある有名な大学では、あるとき、すべての講義は英語で行われるとされていた。

また、かつて、北に位置する、とある総合大学では「国際関係学類」というのが存在し、そこではすべてが「英語」かとうわさされたものだ。

さらにまた、私立大学の雄といわれた二大学のうちのある大学の科学系の某学部では、事務系もふくめすべての学内の会議は英語で行われると、所属の先生から聞いた。最近までに耳にしたところでは、そのいずれも今は実現されていない(らしい)。これは、いったい、何が起こったのか?

ちなみに、本論からは逸脱するがついでながら言及すると、「北に位置する、とある総合大学」では学食のカウンタでは、ああ、「現地語」たるこの国の標準語すら通じない。特異な抑揚のなまりの強い「方言」でないとダメなのだ。間違った窓口に食券を出すと、なんと、いきなり「その食券、◯△※*#!!」と叱られる。ああ、なんとまったく、わからない・・・・・・。いっそのこと、英語で叱ってくれた方が、よいのだが・・・・・・。

やや確認が難しいことであるが、ローマではカエサルが暗殺されたあと、反カエサル派が一掃され落ち着いてから「我こそはカエサルの血すじ」と称する人物が多数、ローマに現れた。彼らは「嫡子」たる自らの正統性を主張し、初代ローマ皇帝となるオクタビアヌス(アウグストゥス)を当惑させた。彼らの多くはカエサルが荒らしまわって征服したガリアの族長の娘などが母親である者たちだったらしいが、ローマに来て、当然のように「ラテン語」で主張した。これがあたりまえなのだ。ローマ市に来てガリアやゲルマニアの「現地語」で主張してもだれも聞いてくれはしない。

歴史にみる英語のお粗末

 

吉田松陰の黒船密航

吉田松陰は、幕末、アメリカの黒船艦隊が来航したとき、 青雲の志をもって旗艦のポーハタン号へ乗り込んだが、英語でプレゼンすることはできず、あっさりと追っ払われた。

日本では評価の高い松蔭だが、はたしてどうだろうか。

櫓(ろ)を固定してこぐためにフンドシをはずして縛り付け、見苦しい風体であったせいもあり、まったく相手にされなかった。惜しむらくは、滔々と英語でプレゼンして密航の目的を伝え、その抱負のほどを開陳することができなかったことだ。乗り込んだポーハタン号艦上でペリーを説得できていれば、事態はまったく違うように展開しただろう。松蔭が日本語で弟子たちに残した数々の名セリフを思えば、ああ、もし英語が堪能であったならば、ペリーの心を瞬時にとらえることができただろう。

実際には日本語(の読み書きのみ)がかろうじてできたポーハタン号の水兵と、なんと漢文で筆談できたのみだった。現代ですら、渡米すれば英語を話せない者に対するほとんど「敵対感」ともいえる差別ははなはだしい。黒船来航は1853年、奴隷解放をめぐっての「南北戦争」は1861--1865年である。当時、有色人種で英語が話せないとなれば、それへの偏見はなおさらであったろう。

後世、ぺりーは、松蔭の渡米は条約上、無理であり、不可能だったとしているが、それはそうではあるまい。幕府は黒船艦隊を「臨検」すらできなかったから、松蔭らをかくまうことなど、容易だったはずだ。幕府の役人が乗り込んできても、素知らぬ顔で追い返せば、それで済むことだったのだ。

欧米人一般について言うと、私事ではあるがこんなことがあった。パリへ仕事で行ったときホテル滞在が長びいたので、裏通りの安クリーニング屋らしいのを探して洗濯物を持ち込んだことがあった。フランス語はあまり自信がないので、店の初老のご婦人に、おそるおそる英語で話しかけた。その瞬間、その優しそうだったそのオバさんの表情は恐ろしいものに変容し、早口のフランス語で怒鳴り始めた。どうも、「英語など分かりはしない。アホか、オマエ、どっから来たんだ。ここはパリだ。さっさと出て行け!」と怒鳴っているらしい。情けないことに、すたこら退散するほかはなかった。現場での、とっさの、コミュニケーションとはこんなものなのだ。

さらに、フランス語圏の辺ぴな田舎の安レストランでは、メニューを見てもさっぱり注文ができず歯ぎしりしてやっとオーダーして食べていると、レジのところで店主の老夫妻がボソボソと「あいつ、どうも日本人らしいが、フランス語ができず、アホだ」と言っている。そこで食事を終えて支払いのとき、このままで済ますものかと気分を奮い立たせ、できるだけ正確なフランス語の発音で「Je suis content. ジェ スェイ コントン(料理はよかったよ!)」と一発かますと、それまで眼をを伏せてこちらを見ようともしなかった老店主が驚愕の表情で背筋をただし、「Merci beaucoup. メルスィ ボークー(ありがとうございます)」 と応え、メイド役のおばさんに目配せしている。言語が通じあうとその瞬間に対話の通路が開けるのだ。

そしてさらに、アルプスの渓谷のどん詰まりに位置し、数年間に日本人が一人来るか来ないかくらいであり、小さな教会がたった一つしかないド田舎の村(フランス語圏)で、旅程の調整のために滞在したことがあった。村で一軒しかないレストラン兼飲み屋に毎晩行っていると、イタリアから「出稼ぎ」に来た初老の男に出会った。結局、その男を相手にして飲むしかない。なんとかたどたどしいフランス語を駆使して話していいると、彼は得意気にふんぞり返って言う。
「オマエは、一体、何語ができるというのか。日本語と英語ができる? 何でぇ、それが自慢か? アホか、そんなものここでは何でもないよ。オレはイタリアのピサ、あのガリレオ様、オマエ知っているかガリレオ様? あの斜塔があるピサに住んでるただの労働者だ。毎年、出稼ぎに来る。その出稼労働者のオレが、ドイツ語、フランス語、イタリア語の三ヶ国語が全部できる。英語なんぞできなくても何の不自由もない。オマエのひどいデタラメのフランス語、聞くに堪えない下手くそさだ。フランス語が出来んヤツは犬と同じだ。何とかならんか、それを。使いモノにならん二ヶ国語しかできないくせしてぇ、えらそうにするな、この野郎!」
とからんでくる。私のメチャクチャなフランス語で、彼と毎晩のように話して、そのうち、お互いに何か意思疎通している気になってきたから不思議である。

話を元に戻し、松蔭をさらに語ろう。おそらくは、あれほど開明的な松蔭であれば、ポーハタン号を突破して渡航に成功していれば、数年後にはアメリカから様々なことを学んで帰国して明治以降の日本の重鎮として活躍し、その後、実際には軍国化していった日本のカジをしっかりと執って、明治の元勲のなかの元勲となり、たとえば、その後に続いた昭和の戦争・敗戦を防ぐことができたかも知れない。

実際にあったことは、ポーハタン号で門前払いされ、その後、あっさりと幕府へ自首して逮捕監禁されたすえ、刑死している。せめて、ポーハタン号以降は潜伏して英語をみがき、再度、密航をくわだているくらいの気概はなかったのものか。いさぎよく幕府に自首することにどれほどの意味があったのだろう。英語の重要さはしっかりと認識していたし、それを学ぶこともできる環境にいた松蔭だが、なぜかその方向へは向かわなかった。彼がそうしていれば、その後それに続く彼の門弟だった「志士」たちは、同様に英語達者となっていたかもしれない。

後世の日本の物書きは、しきりに松蔭のこの行動をほめるが、そうではあるまい。お粗末に過ぎると言えよう。まことに残念のきわみだ。

 

 夏目漱石のロンドン留学


夏目漱石がロンドンへ留学し、ふさぎこんでろくにやるべきことも行わず、うつ病のようになって帰国したことはよく知られている。これがなぜ起きたのか、どのような経緯があったのかを語る文献・研究は多くはなく、さらにこの行状・経緯を説明・批判する著書・意見は、(筆者の不勉強もあってか)寡聞にして聞かない。

どうも、ほとんど下宿から出かけず、 こもっていたらしい。食事に出かけてレストランで注文しても、まったく通じなかったらしい。この状況が、帝国大学出身の学士様のプライドをいたく傷つけ、得意のはずの英語がまったく通じないことがうつ病(のような症状)を発症させたと思われる。

これは、現代の「留学」もしくは「語学留学」している多くの日本から英語圏に移住した若者に共通する状況であろう。彼らの多くは、ネイティブの英語話者と意思疎通できず、日本人だけのグループで集っているらしい。これは日本で開催される国際学会などで、欧米から来る大学に在籍する研究者が一様に指摘する風情である。

漱石は、なぜ、ガリアから出てきて蛮族出身者としてローマで活躍した幾多の人物たちのようにふるまえなかっのだろう。ガリアからの留学生は、ローマにおいて彼らだけで徒党を組んでいたという文献は、寡聞にして知らない。

ところが、帰国して文士となると、『坊っちゃん』『我輩は猫』のように、饒舌で痛快な小説を書いている。さらに、これはどうしたことか。

日本人はそうしたものさ、という安易な結論に、筆者は与(くみ)することはできない。 あの「空海(弘法大師)」を見よ。中国に渡り、おそらくはその言語を完全に習得し、そして、その時代の最高の学府であった仏教寺院ですべての学問を修め、その師をして「後を継ぐことのできる唯一の弟子」とまで言わしめた人物だった。その師は帰国する空海に、泣いて別れを惜しんだと伝えられる。

空海がかくのごとくで、漱石がこのようなのはなぜかを、世の碩学の士よ、 筆者にわかるように説明してほしい。

日米開戦、最後の外交交渉


大東亜戦争(太平洋戦争)直前、日本の外交官、野村吉三郎大使来栖(くるす)三郎大使、アメリカ側からは、コーデル・ハル国務長官によって、ワシントンで最後の交渉が行われた。このとき、野村の提案により、外交交渉では通常は必ず行う通訳の介在を排除して交渉した。野村は、自分が英語に堪能であると自信があったとされているが、 後世、ハルは、野村の話す英語はほとんど理解できないほどのひどい程度のものだったと述懐している。

すでに日本の動きを諜報活動によりほとんどつかんでいた米側は、 日本側が何を言おうが、もはや冷淡に聞くばかりであり、野村はその英語のほどをもわきまえず、交渉を行っていたわけである。

この戦争は歴史の悲劇であったが、それ以前にこの状況はさまざまな問題を提起する。ここで、野村らが滔々(とうとう)と英語で日本の立場と主張を開陳し、ハルを圧倒していれば、歴史はかわっていたかもしれない。少なくとも、次なる交渉の機会をえることは可能だったろう。

この時期、日本はなんと、稀代の英語オンチを、国家百年の計をはかる決定的に重大なときに差し向けていた。まさにこの瞬間、後の三百万人を越える戦死者と焼土と化した国家の命運は、間違いなく野村らの「英語力」にかかっていたのである。

ああ、滂沱(ぼうだ)として、涙が頬をつたう。ほんとうに、情けない。