2018/09/30

日本の国家機関を徘徊する無気力という妖怪

一匹の妖怪(ようかい)が、日本の国家機関を徘徊(はいかい)している──無気力という妖怪が。およそ古い日本のすべての権力が、この妖怪を祓い(はらい)清めるという神聖な目的など考えもせず、同盟を結んでいる。 

この
    一匹の妖怪が...徘徊している。
    妖怪を...せず..
とは、マルクスの『共産党宣言』序文に書かれている有名な言い回しである。

そして、この「妖怪」が、今こそ、日本の国家機関を徘徊している ― 祓い清めることもされずに...。 

 昼夜を分かたずの無気力 

 民間の企業であれば、出世コースを外され、能力を問われて傘下企業へ「肩たたき」で追放、あるいは、退職を勧奨されることがある。そうしなければその企業自体が競争に負けて困難な状況となり、存在理由を問われるからだ。 

ところが、日本の国家機関では、それがない。仕事がなくてもデスク脇のソファーで夕方までは、ご同様な境遇の「同僚」と、すし屋にあるような大型の湯のみ茶碗を持ち寄って茶飲み話をやり、就業時間が過ぎれば、それをビールに切り替えて楽しい時間を毎日、過ごせるのだ。もちろん、この人々の人件費も税金から支払われている。

文字通りの「穀潰し(ごくつぶし)」である。 某中央官庁の地下の、ある「地下売店」は、大瓶20本入りのビール瓶ケースを大型台車に積載しての納入に、毎日、大忙しであった。1フロアで、毎日々々、数十ケース、全階で数百ケース、本数にして数千本は納入しなければならない大得意様である。それはもう、ああ、もうかって仕方がない。詳細は、他稿ですでに書いておいた。 

ゴルバチョフは見た 

かつて、ソ連(ソビエト社会主義共和国連邦)の最後の大統領、ゴルバチョフ氏(ミハイル・セルゲーエヴィチ・ゴルバチョフ)は記者会見で、西側の記者から社会主義の非効率をなじられたとき、ニヤリとして、 いや、社会主義が、ただひとつ、成功している先進国がある。 それは、日本だ。 と言ったと伝えられる。 現実に、筆者のある知人がソ連時代の首都モスクワへ行ったときの話だが ――: 

港のトイレ内の広いフロアに、清掃用モップを持った「彫像」がある。さすが「労働者の国」と感心して近寄ってよく見ると、なんとそれは人間の掃除夫さん。 なぜなら、わずかに、非常にゆっくりとスローモーション映画のようにわずかに動いている。何かのパフォーマンスなのか? あるいは、ノンキで不思議な清掃員だといぶかりながら通り過ぎた。そして数時間後、やはりその同じトイレへ行くと、彼は、なっ、なんと、ほんの数メーター先の位置で彫像のように、まったく同じ動作をしていたそうである。 彼は、その「ノルマ」をこなすためだけに、彫像に近い緩慢な動作を、大まじめに、平然と、公然と、厳粛に、「労働者」の矜持を持って、誇らかに、行っていたのだ。 

かの清掃員氏には、これこそが共産主義国家における労働者の偉大な「仕事」だったのだ。 しかし、笑うなかれ、日本の中央官庁は、じつは、このような状況と大差ない。さすが慧眼(けいがん)のゴルバチョフ大統領は、よくこの状況をすっかり見通していた。日本の中央官庁の体たらくを(スパイを使ってか?)すっかり把握し、知っていたのだ。前述の清掃員氏のほうが、わが日本の某省庁でビールをあおっている自堕落な連中より、ほんのわずかに、ましではあるが...。 あのゴルバチョフ閣下も驚愕の事実だ。そして、これが北◯◯なら、いくらなんでもこのまま放置はしないだろう。全員を機関砲で銃殺かな...。 

省庁に必ず存在する「記者クラブ」がなぜ問題なのか ?
 
役所で、ろくに仕事もせずに楽しくビールを飲んでいる連中が、もし万一、存在すれば、これを記事にして告発するのが、メディアの重要な仕事なのだが、わが日本では、絶対にこれをやらない。やれない。なぜか? かれらは「記者クラブ」という制度において、特権的に、これら省庁の「飼い犬」となっているからだ。およそこの世には、飼い主に噛みつく飼い犬はいない。これをやれば、飼い犬は放逐され、野良犬となる。だからひたすら「大本営発表」方式で、21世紀にもなったというに、有り難く報道しているのだ。 各省庁におごそかに鎮座する「記者クラブ」室とは、飼い犬の『犬小屋』なのだ。 

「無気力という妖怪」に対しての、ほとんど唯一の特効薬は、メディア・報道機関からの告発・摘発・つっこみなのだが、わが日本においては、これはほとんど効果がない。効かない薬なのだ。だれもこんな記事を書かないからだ。いや、むしろ、「妖怪」さんたちを元気づけるに寄与しているとさえ言える。 

ごくまれに、きわめて優秀で、なおかつ、国家を憂え、この士気が低下して弛み切った状況を憂え、改革しようとするような気高い志操(こころざし)を持つ官僚が省庁内にあらわれることがある。しかし、これを葬り去るのは簡単、容易である。このように組織に対して負荷を高めるような、そんなとんでもない高い志操の持ち主は、凡百の小役人にとっては百害こそあれ何の利益をもたらさない。わずらわしいだけの存在だ。 

組織の結束や調和を乱すものは、すべからく排除の対象となる。これを、社会主義国家群では、「粛清(しゅくせい)」という。組織の安泰こそが、その存在目的、存在理由となる。 業績への毀誉褒貶(きよほうへん)、世間の評価などは、いかようにでもできる。スキャンダルでもなんでも、探しだすのは、そんなに難しいことではない。さらにそれに加えて、メディア、マスコミはこぞって、協力し助けてくれる。「世論」など、メディアを使えば容易に操作できる。 こうして、「お役所」と「記者クラブ」は、和気あいあい、濃密な関係でおたがいが持ちつ持たれつで、すっかり出来上がっているのだ。彼ら、それぞれが、みずからの存立自体のみが自己目的となっているからだ。 

これこそ、『旧ソ連圏』のいわゆる「社会主義国家」が目指していた理想郷ではなかったか? そう、「邪魔な存在は粛清」するのだ。

ゴルバチョフ氏の指摘は、きわめて、意味深長である。         

2018/09/23

靖国! ── [2] 陸海軍では靖国を警戒していた

かつてのこの国 ―― 大日本帝国には陸軍と海軍が存在した。これをあわせて帝国陸海軍と称した。

陸海軍の部隊が、靖国神社に部隊単位で拝礼したことがあったとしても、それは正式な作戦行動や陸海軍の行事としてではなく、あくまでその周辺的な行事として行ったにすぎない。そしてさらに重大なことは、帝国陸海軍では「靖国教徒」を警戒していたという事実である。


靖国教徒をもっとも警戒していたのは帝国陸軍


これは帝国陸海軍の従軍者の存命者が少なくなった現在、ほとんど語られない事実であり、敗戦以前であっても公然と語られることがなかった事実でもある。それは何と、陸軍ではいわゆる「靖国教徒」を警戒していたという事実である。

軍事組織は前線において、将校である指揮官(場合により下士官)の指揮のもと、一糸乱れぬ厳正な統率が行われなければならない。その時、この「指揮命令系統」と、それと併存する「靖国精神」が存在することは、作戦行動を行ううえで有害でこそあれ何らの助けとはならない。軍事組織としては当然の論理である。

したがって、とりわけ陸軍では「靖国!」と絶叫してヒステリー状態となるようなタイプの兵士を警戒し、「命令が絶対」であると諭(さと)していた。上官の命令は、天皇の命令(につながる)としていたのだ(「軍人勅諭」)。組織として行動するとき、さまざまな価値観が並存し、それをいちいち持ち出されては作戦行動が取れなくなるからだ。軍紀は厳正で絶対とされていたのだ。

現場の指揮官は、この「靖国キ●●イ」の扱いに苦慮していた。

そして、「軍人勅諭」「歩兵操典」などから始まるさまざまな「マニュアル」には「靖国」はただの一度も出てこない。命令の遂行において、命令系統が一直線であり疑義の余地はないとされていた。

これは他国のいかなる近代的な軍事組織においても同様であり、大日本帝国においても同様に行われた。

また、
「貴様、アーメンか!」
とクリスチャン(キリスト教徒)の部下兵士を罵倒し殴打したとしても、それは上官の正規の命令ではなく、ただの個人的な横暴にすぎないとされ、帝国陸海軍ではこれをも正式には厳禁していた。兵士は「陛下の兵」であって上官の私兵ではないからだ。

また、実際には頻発していた下士官による下級兵士に対する制裁や暴行も、建前としては厳禁していた。

しかし、もっとも恐れていたのは「靖国!」を絶叫し、指揮官による指揮統率に従おうとしないタイプである。

作戦行動の目的はすべて、敵の戦力を破砕し、戦意を喪失せしめることのみにある。それ以外のいかなる論理も、実際には過酷な軍事行動の命令への拒否として、とくに陸軍では大きな問題とされていた。したがって、陸軍では、なにかにつけて「靖国!」を絶叫するタイプを警戒していたのだ。

そしてこの事実すら、もはや、どのような文献にも記述されてはいない。この記事は、帝国陸軍における下級将校だった人物に直接、取材した事実にもとづいている。

問題は慰霊方式が確立していないということ


現在、日本の戦没兵士の慰霊の場としては「靖国神社」のみがそれに相当するかのように、識者までがそのように言及することがある。しかし、それはまったくの誤りである。

帝国陸海軍では、最高指揮官である「大元帥陛下(天皇を指す)」のため、もしくは天皇から授与された軍旗の栄光の下に死ぬことはあっても、それ以外の価値観を持ち込むことは絶対に許されなかった。そこには「靖国」が言及されることは絶対になかったのだ。

そして、あの、毎年の8月15日、特定の政治的あるいは反社会的勢力が結集し、大規模な道路占拠や品位を欠いた騒然たる示威行為がおこなわれる施設が、この国の唯一の戦死者の慰霊施設であるとしたら、これこそ、これらの騒乱こそ、戦死者に対しての冒とくであろう。このようなことで彼らの魂(たましい)が安んじるとは、とうてい考えられない。これこそ、彼らの事績を土足で踏みにじる行為であろう。

戦死者は、国家の戦争行為の発動としての行動中にその結果として死に至ったのであって、これを慰霊するのは、国家として、その国の国民として、当然に行わなければならない行為である。

また、戦死者には浄土真宗や日蓮宗などの「仏教徒」もいたし「キリスト教徒」も存在したのである。かれらは死後は「西方浄土」や「天国」へ召されると確信していたのである。なかには「何が靖国神社だ!」と反発した兵士もいたであろうし、さらに重大なこととして、昭和天皇は靖国神社へはある時点から絶対に参拝に訪れることはなかったことが挙げられる。

そして、さらなる問題は、国家がかつての戦死者をいかなる形式にせよ何らの尊崇と慰霊の姿勢を示さないことにある。ここに、本稿で問題とする、このいわゆる「靖国教」が入り込む余地があったのである。

あの、下品で粗野な「靖国症候群」とも呼称しうる行事・勢力が、使命を達成するために歴史に殉じた幾多の戦死者の魂(たましい)を、安んじられるはずがない。(使命 ―― これについては、本ブログの別稿において、述べる)

また、つい最近、朝鮮戦争における米軍の戦死者の遺骨が返還されたと報じられた。それだけではなく、第二次大戦の戦死者の回収については、連合国は非常な熱意をもって実行し、最大限の礼式と典礼をもって埋葬までの手続きを行ってきた。

兵士が各自、身につけていた「認識票」から個人特定を行い、墓標にはできうるかぎり正確にその姓名と没年を記述し、一人づつ墓標を建て埋葬している。正規の合衆国儀仗兵による葬列と葬送のラッパは、きわめて荘厳なものであり、一人ひとりが国旗に包まれて葬られる。この光景は、今を生きるわれわれに、立場の違いがあったとしても、さまざまなことを考えさせずにはおかない。

にもかかわらず、日本では戦死者に対して個々人の墓碑が建てられ、その姓名が記述されたことはない。残された遺族が個人で建立した墓標があっても、そこには一片の遺骨すらない。遺骨収集団が持ち帰ったとする「遺骨」は十把一絡げに大型容器に入ったままである。せめて、その地で戦没したであろう人物の氏名くらいは、記述できないものか...。なぜ、それすら、しないのだ? 

そして日本の戦死者は今もそのほとんどは、はるかなる山河や、深淵、あるいは、雲流るる果てに、捨て置かれ、放置されたままなのだ。その最期の瞬間に思い描いたのは、家族や祖国の風景であるに違いないのに...。

靖国教徒たちよ、それほどの情熱があるのなら、品位を欠いたあのような騒乱状態を演出するのではなく、真の慰霊の行動を開始せよ。

さあ、起て!靖国教徒よ


激戦が行われ、近年になってようやく日本へ返還された「硫黄島」では、今だに数万人の戦死者が、地中で、塹壕で、滑走路の下敷きとなって、放置されたままである。あの旧敵国において映画にさえされた、この島における当時の最高指揮官ですら、どこで戦死し、どこに埋められているのか、それすら解明されていない。誰も、この国の国家機関ですらこれを解明しようともしない。放置したまま知らぬ顔である。これはいったい、どうなっているのか。こんなことが許されるのか。

「靖国」でこれだけ議論しておきながら、この硫黄島の戦死者への扱いは、まったく理解ができない。また、あれだけ「靖国」で騒いでいる勢力も素知らぬ風情であることが、不思議でならない。

そして、そもそも、この「靖国!」と絶叫することと、靖国神社に祀られている(祀られるはずである?)戦死者とは、実際にはいかなる関係にあるのか、賢明なる読者諸氏には理解できる人物は存在するのであろうか。あれば、説明してほしい。筆者には少なくとも、まったく理解ができない。

真に、本当に、戦死者を心から悼む(いたむ)のなら、すべからく、靖国教徒たる者たちは、北は満州、南はパプア・ニューギニア、東はミッドウェー、西はインドにいたるまでの地域・海域に分け入り、300万ないし500万人に達するという戦死者の骨を、黙して拾って来るべきである。さあ、今ぞ起て、靖国教徒よ!

それでこそ、その努力こそが、はじめて彼ら、戦死者の魂(たましい)を救うことにつながるであろう。

そこで直面するであろう累々たる白骨や飛散した残骸に対峙することこそが、歴史の負の断面を、現代に生きるわれわれに深く考えさせることにつながるのである。これこそが「慰霊」なのである。

大岡昇平が描いた戦死者たち


作家の大岡昇平が書いた「レイテ戦記」には、日本の部隊(第57連隊)がフィリピンのレイテ島に上陸し、行軍を開始して直ぐにに米軍の砲撃を受け、「連隊旗」を奉持していた連隊旗手、田中忠美(たなか ただよし)少尉を直撃した、とある。少尉は戦死し、さらに他に戦死者、重傷者がでた。すぐに高橋少尉がそれに替わって、直ちに行軍を続けたという記述がある。この田中忠美少尉らはその地点に、放置されたのだ。
...200メートル前進してから、軍旗を身体に結びつけるバンドがないのに気がついた。内山軍曹が引き返し、田中少尉の死体からバンドをはずして持って帰った。
たとえば、この田中少尉の戦死体は、いったいだれが収容するのか? 「連隊旗手」が「連隊旗」を奉持して行軍することは、その連隊における最優秀の少尉が担当するきわめて栄光ある、栄誉に満ちた任務だった。この将校にしてこの扱いである。

「連隊旗」(大岡昇平によれば「聯隊旗」)とは、天皇から特定の連隊ごとに直接に授与されたものであり、出先の部隊では、まさにそこに天皇が臨在するのと同様な解釈がされていた光輝に満ちた存在だったのである。

さあ、「靖国教徒」よ、この田中忠美少尉(の遺体)を収容に行かないのか? 彼はきっと待っているに違いない。さらに、
...道路は(米軍の砲撃で)到るところ大穴があき、路地には友軍(日本軍)の死体が放置され、空中は死臭に満ちていた。...
とある。このとき、周辺は日本軍兵士の累々たる戦死体で満ちていたのだ。そして現在でも、彼らは、フィリピンのレイテ島タクロバン周辺に遺骨となって捨て置かれたままである。

筆者の家族だった者が、もし、今だにはるかなる山河や深淵に放置されているのであれば、その遺骨の一片なりとも、この手にしたい。万難を排して現地へ赴き、その埋められた場所の土壌の一握り、岩石の一片でも、持ち帰りたいと思う―― これこそ、慰霊であろう。

くり返すが、旧連合国はこれを連綿と現在に至るも行っているのである。

さあ靖国教徒よ、どうする。行かないのか。