一匹の妖怪(ようかい)が、日本の国家機関を徘徊(はいかい)している──無気力という妖怪が。およそ古い日本のすべての権力が、この妖怪を祓い(はらい)清めるという神聖な目的など考えもせず、同盟を結んでいる。
この
一匹の妖怪が...徘徊している。
妖怪を...せず..
とは、マルクスの『共産党宣言』序文に書かれている有名な言い回しである。
そして、この「妖怪」が、今こそ、日本の国家機関を徘徊している ― 祓い清めることもされずに...。
昼夜を分かたずの無気力
民間の企業であれば、出世コースを外され、能力を問われて傘下企業へ「肩たたき」で追放、あるいは、退職を勧奨されることがある。そうしなければその企業自体が競争に負けて困難な状況となり、存在理由を問われるからだ。
ところが、日本の国家機関では、それがない。仕事がなくてもデスク脇のソファーで夕方までは、ご同様な境遇の「同僚」と、すし屋にあるような大型の湯のみ茶碗を持ち寄って茶飲み話をやり、就業時間が過ぎれば、それをビールに切り替えて楽しい時間を毎日、過ごせるのだ。もちろん、この人々の人件費も税金から支払われている。
文字通りの「穀潰し(ごくつぶし)」である。
某中央官庁の地下の、ある「地下売店」は、大瓶20本入りのビール瓶ケースを大型台車に積載しての納入に、毎日、大忙しであった。1フロアで、毎日々々、数十ケース、全階で数百ケース、本数にして数千本は納入しなければならない大得意様である。それはもう、ああ、もうかって仕方がない。詳細は、他稿ですでに書いておいた。
ゴルバチョフは見た
かつて、ソ連(ソビエト社会主義共和国連邦)の最後の大統領、ゴルバチョフ氏(ミハイル・セルゲーエヴィチ・ゴルバチョフ)は記者会見で、西側の記者から社会主義の非効率をなじられたとき、ニヤリとして、 いや、社会主義が、ただひとつ、成功している先進国がある。 それは、日本だ。
と言ったと伝えられる。
現実に、筆者のある知人がソ連時代の首都モスクワへ行ったときの話だが ――:
港のトイレ内の広いフロアに、清掃用モップを持った「彫像」がある。さすが「労働者の国」と感心して近寄ってよく見ると、なんとそれは人間の掃除夫さん。
なぜなら、わずかに、非常にゆっくりとスローモーション映画のようにわずかに動いている。何かのパフォーマンスなのか? あるいは、ノンキで不思議な清掃員だといぶかりながら通り過ぎた。そして数時間後、やはりその同じトイレへ行くと、彼は、なっ、なんと、ほんの数メーター先の位置で彫像のように、まったく同じ動作をしていたそうである。
彼は、その「ノルマ」をこなすためだけに、彫像に近い緩慢な動作を、大まじめに、平然と、公然と、厳粛に、「労働者」の矜持を持って、誇らかに、行っていたのだ。
かの清掃員氏には、これこそが共産主義国家における労働者の偉大な「仕事」だったのだ。
しかし、笑うなかれ、日本の中央官庁は、じつは、このような状況と大差ない。さすが慧眼(けいがん)のゴルバチョフ大統領は、よくこの状況をすっかり見通していた。日本の中央官庁の体たらくを(スパイを使ってか?)すっかり把握し、知っていたのだ。前述の清掃員氏のほうが、わが日本の某省庁でビールをあおっている自堕落な連中より、ほんのわずかに、ましではあるが...。
あのゴルバチョフ閣下も驚愕の事実だ。そして、これが北◯◯なら、いくらなんでもこのまま放置はしないだろう。全員を機関砲で銃殺かな...。
省庁に必ず存在する「記者クラブ」がなぜ問題なのか ?
役所で、ろくに仕事もせずに楽しくビールを飲んでいる連中が、もし万一、存在すれば、これを記事にして告発するのが、メディアの重要な仕事なのだが、わが日本では、絶対にこれをやらない。やれない。なぜか?
かれらは「記者クラブ」という制度において、特権的に、これら省庁の「飼い犬」となっているからだ。およそこの世には、飼い主に噛みつく飼い犬はいない。これをやれば、飼い犬は放逐され、野良犬となる。だからひたすら「大本営発表」方式で、21世紀にもなったというに、有り難く報道しているのだ。
各省庁におごそかに鎮座する「記者クラブ」室とは、飼い犬の『犬小屋』なのだ。
「無気力という妖怪」に対しての、ほとんど唯一の特効薬は、メディア・報道機関からの告発・摘発・つっこみなのだが、わが日本においては、これはほとんど効果がない。効かない薬なのだ。だれもこんな記事を書かないからだ。いや、むしろ、「妖怪」さんたちを元気づけるに寄与しているとさえ言える。
ごくまれに、きわめて優秀で、なおかつ、国家を憂え、この士気が低下して弛み切った状況を憂え、改革しようとするような気高い志操(こころざし)を持つ官僚が省庁内にあらわれることがある。しかし、これを葬り去るのは簡単、容易である。このように組織に対して負荷を高めるような、そんなとんでもない高い志操の持ち主は、凡百の小役人にとっては百害こそあれ何の利益をもたらさない。わずらわしいだけの存在だ。
組織の結束や調和を乱すものは、すべからく排除の対象となる。これを、社会主義国家群では、「粛清(しゅくせい)」という。組織の安泰こそが、その存在目的、存在理由となる。
業績への毀誉褒貶(きよほうへん)、世間の評価などは、いかようにでもできる。スキャンダルでもなんでも、探しだすのは、そんなに難しいことではない。さらにそれに加えて、メディア、マスコミはこぞって、協力し助けてくれる。「世論」など、メディアを使えば容易に操作できる。
こうして、「お役所」と「記者クラブ」は、和気あいあい、濃密な関係でおたがいが持ちつ持たれつで、すっかり出来上がっているのだ。彼ら、それぞれが、みずからの存立自体のみが自己目的となっているからだ。
これこそ、『旧ソ連圏』のいわゆる「社会主義国家」が目指していた理想郷ではなかったか? そう、「邪魔な存在は粛清」するのだ。
ゴルバチョフ氏の指摘は、きわめて、意味深長である。