何が科学的真実だったのか
理化学研究所における「STAP細胞研究」の一連の経緯については、多くが語られ、報道され、論評された。しかしながら、決定的なことのいくつかはどこにも語られないままである。
そこで本稿では、試論的に、あえてこの「事件」の背景と意味を論ずる。「事件」とここで称しているのは、STAP細胞研究そのもののや、その研究者たちの人物像を対象としているのではない。
それに関わる研究機関、報道のありかた、あるいは本来的な科学的意義についての考察である。
ガリレオの宗教裁判
ガリレオが「地動説」を唱えたとき、その時代の知性はいっせいにガリレオに反発し攻撃した。STAP細胞の「実在」については、いったんは「ノーベル賞級の...」とほめそやし、追試ができない(つまり、確認できない)となると、一転してあたかも「魔女狩り」的な宗教裁判の様相を呈した。
多くの「科学者」が(科学者ではなく「科学者」なる人々、が)、われこそは正しいといわんばかりに"したり顔"で、論評した。
しかし、「追試ができない」ということと、「科学的に実在しない」ことは、まったく意味が違う。ガリレオの時代、地動説は科学的に証明が困難な事象だった。だから、当時の知性はこれを認めなかったのである。
STAP細胞は、もしかしたら、千年の後にその実在が証明されるかもしれない。今回の事件の論評のなかにそのような視点をもつ考え方が、まったく表明されないのは、まったく不可思議である。「存在する」ことは、そのものを示せばそれで充分だが、「存在しない」ことを証明することは無益、あるいは不可能であるからだ。これは、いわゆる「悪魔の証明」として自明とされている。
アインシュタインとボーアの論争
もう、一つ。ショウペンハウエル『意思と表象としての世界』という著書がある。
ショウペンハウエルとは、「デカンショ節」に出て来るあの『デカルト、カント、ショウペンハウエル』の一人だ。難解な三大ドイツ哲学のひとつだ。ここでは「世界は私の表象である」と言っている。これは言葉・観念の『遊び』のようなものだが、ところがどっこい、その後、これが量子力学において、同じようなことを言っている。こうなるとショウペンハウエルの独擅場だ。
これは「見えている世界は、実はすべて、私(の意志)が作り出したもの」と言っているのだ。つまり、観測者が存在するか否かで、実験の結果が違ってくるという事実だ。
つまり『私』が見ているか否かで、物理現象の結果が違っているという実験結果に、最新の科学も、明確な説明ができないというあの論争だ。相対性理論の創始者であるA. アインシュタインは最後まで(死の直前まで)「月は、私が見ようと見まいと、そこに存在する」と、量子力学の創始者であるN. ボーアと論争した。量子力学の『奇怪さ』、さらに相対論の途方もない理解不能さではあるが、最近では、もうGPSなどでその成果がスマホの中ですら使われている。
そして、科学とはこのように論争している状態が、正しいのだ。
生命現象は、きわめて複雑であって単純ではなく、アインシュタイン=ボーアが論争した「電子のスリット実験」のような単純な事象ではない。
見ていると(観測者が存在すると)結果が変わるという事象が、これが、それこそ幾重にも重なり、さまざまな観測結果がありうるのではないか。
これが、あの理化学研究所の一派が言いたかったことではないか。と言うより、この後、千年が経ってから立証されるかも知れない。少なくとも、現在、誰一人、この主張がない。
ガリレオが地動説を主張し裁判にまでかけられたとき、おそらく、彼は途方もない(トンデモナイ)人物だとされたに違いない。このワダチの弊を、また、たどっているのはないか。少なくとも、今、誰一人、この主張がない。
日本の歪んだジャーナリズム
言いたいのは、このようなどこにでもある、下世話な『不正』としてだけ、STAP騒動と言われているこの一件を描写してしまっていいのか、ということ。『記者クラブ』連中はじめ、識者先生も『週刊◯春』どころか『■■■芸能』的な、物言いしかない。そして、したり顔の『~新聞科学部記者』が聞いてあきれる。ほんとにやる気があるのか、と。「記者クラブ」で配布される資料で提灯記事を書くだけの低能ぶりのくせに、あたかも宗教裁判の判事気取りだ。
『◯氏』を悪く書けば書くほど、雑誌は売れ、世間は沸き返る。新聞・雑誌などマスコミは、STAPができようができまいが、どっちに転んでも儲かってしようがなく、笑いが止まらない。
ここでも『記者クラブ』連中の全能感が、横溢している――世界は(ホトケ様の手のひらの上で展開していたように)吾が手中にある、と。それに、オンナがらみのスキャンダル記事は、もういい。そのコトと、科学のことは別にして書いてくれないだろうか。
日本で重厚な真のジャーナリズムが育たなかったのは、きわめて残念であり、幾多の罪過を残してきた。
みんなペラペラ。戦争を煽り、世をその惨禍に追いやり、負けたとなると、今度は自分たちだけは『良識』を装い、戦い破れてボロボロになった連中をたたく――これがその常套手段。メディアの諸君は、今回もこれをやった。
カネとオンナ――これは陳腐な話題だが、科学とオンナ――オッ、これはイケると踏んだのだろう。こんな三文雑誌屋・新聞屋のペテンにかかっていてよいのだろうか。
こんな新聞・雑誌屋、『記者クラブ』で「我こそは、この世の良心なり」とふんぞり返っている連中を、これを機会に粉砕したい。
さらに、諸般の経緯が「ガリレオの裁判の、再来」とも言えるということを、指摘しておきたい。