火災事故をいたむ・・・が、しかし
フランス、パリのノートルダム大聖堂の火災では、歴史的建造物が大きく損傷した。残念でならない事故であるが、ここからさまざまなことが見えてくる。これについて論ずる。ここで展開する分析とは、これはあるいは「神の鉄槌」ではないのかということである。
旧約聖書では、旧約の「神」はかつて、ソドムとゴムラという背徳の都市を焼き払ったとされている。
大航海時代以降のヨーロッパの植民地主義の苛烈さ、残虐さは言語を絶するものだった。フランスも例外ではない。日本が第二次大戦に先立ち、「仏印進駐」と称してフランス勢力を駆逐するまで、ベトナムに居座っていた。地中海の対岸のアルジェリア、アフリカの国々のいくつかもまたフランスの植民地だった。インドネシアはオランダが350年間、植民地として搾取した。
ヨーロッパの国々は、その覇権を獲得するために狂奔した。当時のキリスト教は、その植民地取得のための「先兵」として送り込まれ、アジア、アフリカの国々を先ずは内部から崩壊させ、しかる後に植民地としたのである。あろうことか、「キリスト教」の名において侵略したのだ。
きわめて残念なことに、現近代のヨーロッパの知識人、思想家、あるいは、キリスト教の聖職者といわれる人々の思想や論調においても、これへの分析や批判、反省はきわめてまれである。
この植民地主義の下での人道に反する搾取は、第二次大戦が終結するまで数百年間にわたり、行われたのだ。
神による歴史批判なのか?
だから、神は背徳の国々の本拠ともいうべきフランスのパリを、少しだけではあるが、炎上させたもうたと言いたいのだ。神の怒りだったのだ。
今回の火災へのさまざまな「識者」のコメントにも、これらは、まったく言及がない。これでいいのか? 聖職者、教会関係者として、信仰のもとにある者としてほんとうにこれでよいのか? どうなのだ。
新約聖書によると、イエス・キリストは、ここに指摘した問題提起に極似することを実行している。神殿、つまり「神のやしろ」で出店して商売する人々の施設を破壊してまわったのだ。イエスは、ときとして「過激派」であり、ただ静かに祈る存在だけではなかった。
パリ、その驚くべき凋落ぶり
そもそも今回の火災は「修復工事」にともなって、発生したとされる。まことに不可解ではある。またその原因・経緯すら発表されていない。
いったい、何のための「修復」だったのだ。こんな「修復」なら、はじめからしなければよかったのだ。
シテ島は美しい。だが、それ以外のパリの街路は、現代の日本では考えられないほどの汚濁と混乱に満ちている。広い表通りは美しいが、その裏通りは、散乱する大量のゴミと、きわめて不快な排泄物の臭気に満ちている。一流ホテルは良好なのだろうが、「普通」かそれ以下のホテルは設備の老朽化、応対品質のはなはだしい低下が顕著であり、耐え難い。
したがって、きわめて感覚的で雑駁な言い方をすれば、今回の火災事故は、そのお粗末さ加減からして何らの不思議はない。その原因・経過すら不明であっても。
そして...
パリは燃えているか? ―― かつて、こう叫んだ歴史上の人物が存在したが、そう、今こそパリは炎上したのだ。