2022/06/11

歴史はなぜ進化しない ― ウクライナ戦争

ここでは、他では論じられることのない側面から、ウクライナ戦争、ロシア…について論じる。

歴史は、人類は、はたして進化したのか

ウクライナにおける、ロシア:プーチン政権の蛮行を見ると、はたして人類は進化しているのか、いや、あるいは退化しつつあるのではないかと、はなはだ疑問をいだかざるをえない。

かつてヒットラーやスターリンの行った所業に勝るとも劣らない、言語に絶する所業の数々に、これが本当に21世紀における出来事なのかと、暗澹たる思いを抱かざるをえない。

 ロシア軍戦車の前に立ちはだかって見せよ

さらに重苦しい思いになるのは、知識人ら、ローマ教会などの宗教勢力、などからも、何らの動きや声明も伝わってこないし、身を挺して解決に立ち向かおうとする政治家や機関もない。いったい、どうなっているのか?

そして、悲しいかな、国連はまったく機能していない。識者やマスコミなどでも、この無能さ加減を言及すらしない。ローマ法王など、ウクライナへ飛んで行って、ロシアの戦車の前に立ちはだかり、「私を踏み越えて見せよ」と、啖呵(たんか)を切ってみせてもいいだろう。そうすれば、世界中がこの大団円に拍手喝采するであろう。聖堂の奥深くで線香臭い祈りを唱えるばかりが仕事であるまい。 キリストが、もし現代のこの世に生きていたなら、こんな教会は見限るだろう。

イエス・キリストは、かつて、「罪深い女」が民衆による石打の刑に処されようとしたとき、その前に立ちはだかり、

罪をおかしたことのない者だけが石を投げよ!  

そして、私がそれを受ける。

と、言って見せたではないか。そして、石を投擲しようとした者たちは、ハタと立ち止まり、立ち去ったと、新約聖書には書かれている。

私、筆者が、このセリフを描写する物語を聴いたのは、はるか昔、幼稚園児のころであるが、イエスの、そのあまりのカッコよさに涙したものである。

また「この状況をふまえ…」として、軍事力の強化や言論の統制などという、あらぬ方向へ舵を切ることが懸念される。このような国際的背景が存在すると、かならず言い出す輩(やから)がいるのである。 

そんなことは、あとで、先ずは、ウクライナを救うことだ。ウクライナが壊滅すれば、こんどは世界の穀倉であるウクライナが機能しなくなり、地球規模の飢餓が発生することとなろう。もう、どこにも平和な暮らしなどありえないことになろう。

もう、すぐそこに深刻な飢餓が迫っているのだ。


2022/03/04

北方領土へ直ちに進攻せよ ― 今こそあの国の背後をつく好機!

今も残る第二次大戦の負の遺産

国後(くなしり)島、択捉(えとろふ)島、樺太の南半分および、その周辺の小島は、日本固有の領土であったし、現在でもそれに何らの変更はない。太平洋戦争で日本が連合国に降伏後、占領期間を経て「サンフランシスコ条約」において領土を回復したにもかかわらず、これらの諸島は、かつてはソビエト連邦、現在はロシア共和国に不法に占拠されたままである。

沖縄は、同様に大戦末期に激戦のすえ占領されたが、その後、米国との粘り強い交渉を経て、返還された。

さまざまな経緯については緒論あろうが、北方領土は、実態においてロシアが不法に占拠したままで何らの変化がない。

この、ロシアの、領土に対するあくなき野心・要求は、いわゆる「ロシア」が隣接するあらゆる諸国に対して歴史的、伝統的に行ってきた方式であり、今回のロシア西方 ― ウクライナなど ― に対しても、変化がない。変化があるとすれば、より過激に、より直接的に領土に対する野心をあらわにしたことであろう。

われわれ日本としては、 これらの災厄をこうむった国々に対しては、距離的な問題が要因となって、ほとんど何らの援助や応援すらさしのべる方策がない。政府、民間とも、残念ながら腰が重い。

そこで、現在、ユーラシア大陸の西方でプーチン政権により行われているこのありうべからざる暴挙を阻止する、ほとんど唯一の方策として、今こそ、国後島、択捉島などの北方領土の回復を実行すべきだと提言したいのである。

背後を衝く(つく)、これをやるのである。強調しておきたいのは、これは、不法行為的なことではなく、現時点においてロシアが不法に占拠していることが、問題なのである。

ロシアに対し、現時点において考えうる、最大の牽制となるであろう。

今、ロシアはウクライナなどの問題で翻弄されている。ウクライナを支援するためにも、今こそ、ほとんど、唯一の好機である。

今回のウクライナ侵攻であきらかになった事項として、ロシアとは、どのような理由であれ、少しでも油断すれば、周辺諸国に対し、機会を見過ごすことなく領土を狙うというということである。日本が、日本本来の領土回復について断念することがないことを、これを機会に披瀝するのは、語のまったき意味における恒久平和の確立に資することは疑う余地がない。



















 

2022/02/11

新幹線水没・原発放射能、そして学校火災

中学生のときの校舎火災

もう数十年も以前の古い話だ。学校祭の日だった。校舎は、L字形に展開する、二階建ての、嗚呼(ああ)、ため息が出るような、古色蒼然、古~い、オンボロの木造だ。

ふと、そのL字の内側から、向こう側のウイングの窓を見ると、窓から大量の煙が噴き出し、立ち上っている。状況は全くわからない。現実とは思えない不思議な光景に当惑する…こんなの見たことないぞ、と。

とにかく駆けつけなければ…と、行ってみる。と、なんと、床から立ち上った炎が垂直に天井まで届き、炎の先端は天井できれいに放射状に割れて、天井の大半をなめている。一見して、きわめて危険な大火災だ。周囲は無人で、何の音もしない。誰もいないし、放送での説明、避難指示などもない。ただ大きな火炎が垂直に火柱となって吹きあがっている。

夢の中の幻想を見るような、映画の一場面を見るような、遠い過去の思い出のような、なんとも言えない不思議な風景であり、見たこともない異様な美しさがあり、とても現実とは思えない。これがいったい何であるか、自分自身に納得させることができない、しばし見惚れるような、非現実的な、奇妙な現実だ。

が、ここまで見届けると、私は何らのためらいもなく、行動を開始した。事は急を要することはあまりにも明らかだった。一秒の無駄も、命とりだ。

同時、私は中学校の最上級生。意のごとく動かせる「手下」が何人もいて、平素からボス気取りだった。私の後を息を切らせて追ってきた、その手下どもに「どこからでいいから、消火器を、できるだけ沢山、集めて来い! 急げ、早くしろ!」と、命令。自分で引きずってきた一本は、すぐに出なくなる。火勢は、まったく止まない。「手下ども」は、「勝手にそんなことして消火器を開けたら、先生に叱られる。先生に聞いてからやっては ...」などと、まだ怪訝な風情だ。

どんな時にも、この種の間抜けな「慎重論」のようなことを、グダグダと言い出す輩がいるものである。ここで慎重になっていてどうなるというのだ! お利巧さんに、用はない。

そこで、一喝して「ダマレ!、うるさい! 馬鹿野郎!。 黙って言う通りにやれ! 俺が叱られてやる。いう通りにやらない奴はブッ飛ばすぞ!」と怒鳴る。それでも「探しに行ったけれど、見つからない」などと泣き言を言ってくる野郎がいる。いちいち、消火器が鎮座している場所を教えて「すぐに持って来なければ、ただではすまさないぞ、この野郎!」と脅迫し、慎重派をことごとく粉砕する。

やがて集ってきた消火器を次々と開栓。消火器20数本ほどでようやく制圧。鎮火。あたりは、消火器の残骸がゴロゴロして、なかなか壮観だ。

災害とはそもそも、こんなものだ。ここで、行動を一瞬でもためらっていれば、間違いなく校舎は全焼していた。とにかく、考えうる最善を尽くすのだ。これが男というものだ、と。

この間、たった一人の戦い、だった。何だか、うっとりするような話ではないか。男を挙げるのは、こんなときだ、と…、得意満面だった、が......。

ところがである。なんと、その後、あろうことか、驚くべきことに、私は、その功績を誉められるどころか、厳しく叱責されることとなった。全校生徒が避難指示に従い、整然と校庭に避難していたのに、たった一人だけ、参集しようとせず「馬鹿なお前は、またまた、勝手なことをしていた」ということで...。全員が避難して集合し、点呼して、アッ、あいつまた「どこかでフラフラしていた」トンデモない不埒(ふらち)なヤツだというわけだ。

まっ、このお叱りに対しては、腹のなかで「誰が火事を消したと思ってるんだ。やれたのなら、やって見せればよかっただろうに」と、胸をそらして昂然(こうぜん)として聞いていたが…。

ここで指摘したいのは、驚くべきことに、その時、教職員を含め、だれ一人、「消火しよう」と発想しなかったということだ。

また、そもそも学園祭の展示物のなかに、火を使い、それを見過ごしていたということの失態。そしてさらに、出火してからは「消火する」という発想に誰一人としてたどり着かなかったということだ。

想定外でした...本当に?

さて、ここからが本論。

本稿で指摘したいのは、あの水没した車両、水に浸かるまえに、現場の要員たちが高台に移動する発想がなぜできなかったのか ─ これだ(2019-10-13)。全車両が整然と水没している体たらくは、異様でさえある。そしてさらに驚愕するのは、「専門家」あるいは「関係者」諸氏がだれ一人、そのことを、事後であっても車両を退避させえたことを指摘すらせず、素知らぬ風情であることだ。損害額はいくらか知らぬが、甚大な金額となっていよう。

そしてまた、太平洋の海岸に「ツナミさん、どうぞ!」と言わんばかりに原発を並べておいて、津波が来襲したら、いったい、どうするつもりだったのだ。(福島第一原子力発電所事故、2011年3月11日)結局のところ、どうもできなかったわけであるが、こんなことでよいのか?

さらにまた、甲板上に爆弾・魚雷を搭載した航空機を大量に並べておいて、その瞬間に敵機が来て爆撃したら、どうするのか。(ミッドウェー海戦:昭和17年・1942年、6月5日~7日

想定外!ーこの何にでも効く特効薬、免罪符、言い訳? まさに「想定外」のオンパレードだ。

悲しいかな、日本の歴史にはこのような場面がいくつも見出だすことができる。損害額は、それぞれ、数千億円どころか、はるかな天文学的数字となるであろうが、このツケは、全て利用者、つまりは納税者としての国民に付け回しされるのである。

そして、これらの歴史的事件の関係者・当事者・専門家からは、今にいたるも、何らの説明や釈明、言い訳や、泣き言すらもない。

嗚呼(ああ)!