2014/04/05

靖国! ── [1] 日本における信教の自由とは


戦犯の合祀 ── これは、昭和天皇ですら、その後の参拝を行わないことで反対の意思表示を行うほどの暴挙だった。

昭和天皇は、かつては大日本帝国陸海軍の頂点に位置するとされた存在だった。また開戦以来、初めての玉砕がアッツ島で起きたとき、すでに無線機と暗号書を破壊して通信の手段を持たず全滅したとされた現地部隊に対して、
最後まで良くやった。このことをアッツ島守備隊に伝えよ。
と命令された。「もう打電しても無駄だ」という参謀総長に対し、
それでも良いから電波を出してやれ。
と発言されたほどの熱血と温情の天皇であった。

この天皇にして、戦犯の合祀を容認はされなかったのだ。

海外から見れば、この「合祀」さらに「首相の参拝」によって、「日本は第二次大戦における戦争犯罪者を『顕彰』している」という見解を持つのは当然であろう。

今や、世界の「宗教」でかくも政治的な存在は他に類例を見ない。海外の政治勢力は、思う存分にこの状況を政治カードとして利用し、日本はそれにより国益を著しく損じている。しかも、発端は、国策の決定でもなければ、日本国民の民意にも基づいていないのである。

東條首相は「英霊に申し訳がたたない」という超論理的な論拠で、中国大陸での事変(実質的には戦争)を収拾しようとはせず、拡大の方向に向かった。この珍妙な論理が、やがて国を滅ぼすに至ったことを忘れてはならない。

きけわだつみのこえ」におけるクリスチャン


戦没学生遺稿集である「きけわだつみのこえ」や「はるかなる山河に」「雲ながるる果てに」に出てくる戦没学生のなかには、少なからず、キリスト教徒がいる。

その書簡の末尾にふつうであれば「敬具」と書くところを、キリスト者らしく「主にありて」と記してあり、他の遺稿と同様に涙なくしては読めない。

「主にありて」という聞きなれない表現は、キリスト教の根幹を作ったといわれる聖パウロが信徒への書簡で好んで使った言い方で、「主(イエス・キリスト)のなかにあって、生きている者」という意味である。これらの戦没者は、キリストのなかに自分は生かされていると信じていたのだ。

そして、これら「キリスト者」の靖国への合祀は、キリスト教の教義に照らせば、戦没者本人・遺族にとってたえ難いものであり、実際に戦後になって何度も合祀取り下げの要請が出され、拒否されている。これは、一体、何なのであろうか?

 昭和18年 神宮外苑での出陣学徒壮行会
陸軍軍楽隊が演奏するのは
「陸軍分列行進曲」


また、戦後の自衛隊殉難者の遺族が、合祀について裁判まで起こして阻止しようとしたが、一審、二審勝訴、最高裁で敗訴となっている。本人や遺族の意思に反する「合祀」とは、いったい何であろうか。

勝手に「合祀」


そしてもっとも重大なことは、これらの靖国の決定とは、何らの教義にも基づくことなく、どこで検討された事項でもない、いわば、恣意的に決められしかも何らの責任をもともなわない(つまり誰も責任を取らない)決定事項であることである。

このようなことが、はたして「日本国の意思」なのであるか。このような「決定」に国益を左右されることは許されることなのであるか。

かかる重大な決定に、誰が責任を持つのか?

日本の「マサダの砦」 ── これこそ日本の伝統・宗教・文化


また、「靖国」は日本の伝統・宗教、文化そのものであるという論理もある。しかし、これはまったく違う。

古来、宗教勢力が政治勢力化した歴史は多い。ユダヤ人がユダヤ教の下に結集し、ローマ帝国に反乱してエルサレム近くの「マサダの砦」に籠城して2年の激戦ののち敗戦し、流浪の民となり近代に至った。

日本も例外ではない。織田信長が一向一揆に手を焼いたのはよく知られている。豊臣秀吉の大坂城は、破壊した本願寺の上に建てられた。

また、北陸のいくつかの地方は江戸幕府ができるまでのある期間、「一向衆徒(浄土真宗)」による国だった。今でも山深い一郭に、「一向衆徒」の拠点として最後まで戦って全滅した、日本版「マサダ砦」ともいえる城跡をいくつも見ることができる。

現代でも、この地方の浄土真宗の勢力は、あつく根強い。

門徒の老人たちが数人、この地方では最大の伽藍(がらん)を有する寺院の壮麗な山門の前に立ち、門を閉じて「ゲバ棒」を持ち、あたかもかつての「大学紛争」のように、ピケットラインを張って、寺を守っているのを、筆者は何度か目撃している。


聞けば、
教団内で問題が起きている。ワシらの寺を、守らにゃ・・・・・・。」
という。

数百年前の「一向衆」の蜂起、さらに二千年前の「マサダ」が脳裏をかすめ、胸が高鳴った。

これほど、この地方の真宗の勢力は根付いている。体を張って、信仰を守るに何らのとまどいはないのである。伝統、文化をいうならこういうものを指すのであろう。


靖国信者でなかった帝国陸軍兵士


靖国神社が戦死者を祀る、これが、いわば国民の総意であったかのように言われているが、そうではない例 ── 靖国信者ではない帝国陸軍兵士の実例を、いくつか示そう。
昭和191128日、 広島県の宇品港から出港して半年後、フィリピン、レイテ島のオルモックへ突入しようとした陸軍の輸送用潜水艦(2号艇)はアメリカの駆逐艦部隊に包囲され激戦のすえ、撃沈された。そのとき6名の艇員が脱出して漂流した。救助しようとした米軍に応ずることなく、抗戦の意志、止みがたく、手榴弾をにぎりしめて海上を漂う。
潮騒に、死を覚悟した日本兵の「賛美歌」が流れた ― とある。
(中島篤巳「陸軍潜水艦隊」pp 88-89 新人物往来社 2006
また、筆者の亡父は、陸軍歩兵大尉で終戦を迎えた。

自らを「戦闘技術者」として任じ、何かというと出来もしないことを声高に絶叫する「頭に血がのぼった」タイプ、あるいは「靖国で会おう!」と激情に身を任せるようなタイプを心から嫌悪していた。

戦闘の結果は、作戦と装備、兵員の練度、指揮の巧拙で決定され、それ以外に頼るものは何もなく、兵たるものは命を粗末にせず、できるだけ長く生き残って「陛下にご奉公」すべきだというのが、彼の口癖だった。彼にとって「死ぬ」ことは、たんに「任務の放棄」にすぎなかった。

彼にとって、この「生き残って陛下にご奉公」とは何も、今どきの右翼勢力などがかかげる哲学を意味しているのはない。指揮下の部隊が、命令を伝える指揮棒としての軍刀の振り方いかんによっては、瞬時にして全滅することもありうることをよく知っていたがゆえに、指揮下部隊の、あるいは自分自身の運命に、より高次元の意義を与えようとしていたにすぎない。

また、負傷や糧食の欠乏などで絶望した兵士は、容易に銃口を口にくわえて自決してしまうことを、戦訓としてよく知っていた。自分の生命は自分のものでなく、「陛下」生命なのだということを戒めとしていたのだ。

中国戦線から各方面でのさまざまな戦闘を経験した歴戦の前線指揮官として、昭和20年、最後の配置であった千葉県習志野(ならしの)で帝都防衛のための「はりつけ部隊」(後退を許されない部隊)の指揮を執るように命令されたとき、その装備と兵員のあまりのお粗末さを見て、確実にここで全滅するのだと静かに思ったという。帝国陸軍の最盛期と最低のときを見て、これから起こる戦闘のすべてを見通していたのだ。

以前の任地であった中国戦線では、出先の少人数で守る分哨が全滅した。救援に駆けつけたころには分隊長以下、全員が戦死しており、その体が「細部にいたるまでバラバラに」切り刻まれていたのも見た。そして、その戦死体を鉄の棒でつつきながら夜通しかかって泣きながら火葬した。

また、まったくの暗闇からの「八路軍(=毛沢東の中国共産党軍)」による繰り返しての突撃を夜通しうけたときは、八路軍の指揮者が発する「サァー!(殺せ)」の号令がごく近距離から聞こえ、今度こそはダメだと観念したこともあった。

習志野で兵らを指揮して塹壕を掘っていると、大本営の参謀が東京から馬に乗ってやって来て、軍刀を振るって督戦してまわり、まったく何の役にも立たない命令や叱咤激励を紅潮して絶叫するのを見て
「何を、この気違いどもが!」
と、覚めた眼で見ていた。
(このように直属の上級指揮官以外が、直接に「命令」することは、ありえないことだった。現場は混乱の極みだったのだ。)


このとき、昭和天皇は、大本営をもはやまったく信用しておらず、これら大本営参謀とは別に、宮中に勤務する「侍従武官」に直接命じて房総半島などの防備状況を視察させ、報告されている要塞や陣地が事実とはかけ離れた「絵空事」であることを完全に把握していた。亡父の記憶では、「東京からいろんな人がやって来たが...」この「侍従武官」を目撃はしていない。おそらく、天皇の命令で隠密に行動していたのであろう。

一個小隊(50人くらい)にわずか数丁の小銃(歩兵が携行するライフル型の銃。当時すでに旧式で貧弱で低性能とされていた)があるだけで、弾は一会戦分だけ。通常ならば、30分で撃ち尽くす。かつては「標準装備」だった、銃剣も、手榴弾も、擲弾筒(てきだんとう=歩兵が携行する小型の迫撃砲)も、援護射撃の砲も、糧秣(りょうまつ=食料)もない。歩兵部隊には必須の、軽機関銃もなく、以前の任地では威勢よく「重機、前へぇー!」と号令していた、その重機関銃そのものがどこにもない。一般の兵は水筒すら支給されず、一部が竹筒を持っているだけ。訓練は、夜間でも隊列がバラバラにならないように、ワラを編んだヒモでたがいの体をつなぎ、夜襲をかけて突撃することを想定したものだけ。これでは、戦闘のやりようがなかったのだ。

熱心な浄土真宗門徒だった亡父は、「南無阿弥陀仏」とは唱えても、「靖国」についてはまともに取り合うことは、終生、なかった。それが彼なりの「節度」であり「教養」であり「信仰」だった。あの「気違いども!」とは、組みしたくなかったのだろう。

戦後になっても、家の中に仏壇はあっても、神棚を置くことは絶対に許さなかった。もう、金輪際、あの「気違いども!」とはかかわりたくないというのが、彼の根底からのホンネだったろう。

そして、「靖国」は「あの人たちのもの」という考えであったようだ。米軍の装備と戦術を聞かされていた亡父は、いたるところを掘り返して複郭陣地とした房総半島の丘陵に立ち、ここが確実に自分の死に場所であり、国家が押し付ける「靖国」を受け入れることなく、自分はやがて親鸞が説いた「阿弥陀如来」のもとへ行くのだと自分に言い聞かせていたという。

戦後になっても、亡父の洋服ダンスのもっとも手に取りやすい場所に階級章が着い「陸軍将校制服一式」がかけられたままであり、また軍刀の手入れを怠たることはなかった。「どうして...」とたずねると、最後に所属した部隊の連隊長の最後の命令が
陛下の命令によ家郷に復するため、ここに部隊を解散する。諸君には、やがてまた必ずやお召があろうから、それに備えいつでも馳せ参じることができるよう待機せよ
だった、という。そしてしばらくは、小銃、小銃弾を小舟に積んで湖沼に投棄する仕事に従事し、最後に、個人装備である拳銃をも湖に投げ捨てた。湖面を、弧を描いて飛んで行く拳銃を見て、これですべてが終わったと思ったという。復員は混乱を極めていたが、一計を案じて、軍刀(これも個人装備)を「客車便(鉄道による小荷物輸送便)」で郷里へ送付した。列車で持参していると、途中で没収される可能性があったからだ。あの混乱のなか、彼の「軍刀」は郷里に安着した

そして、彼には、亡くなるまで、連隊長の「待機命令」が生きてい

 

戦没者の慰霊


戦没者を祈念する ── それは大いにやるべきである。

硫黄島の地下には、今も幾千のも戦死者が眠っている。ニューギニア島のココダ街道では、個人でかつての戦友の骨をたった一人で拾い集めたひともいる。

いや、太平洋全域、ミャンマーの奥地、インドの一郭の広大な地域・海域での累々たる戦死者は、祖国からの迎えを今にいたるも無言で待っている。

政治家は戦死者を顕彰したいのであれば、戦没者や「靖国」を政治の道具として翻弄するのではなく、これらかつての激戦の地へ自ら行って遺骨を拾い、戦死者の無念に静かに思いをいたすべきである。

また、アメリカ、オーストラリアなど連合国は、戦後においても時間をかけて自国の戦没者の遺体収容を可能なかぎり丹念に行い、できうるかぎり、認識票から本人特定を行い、行いうる最大限の式をもって、それぞれの戦没者墓地に一人ひとりの氏名を記して、埋葬したことを知るべきである。

そして、あれほど「靖国!」を絶叫するのなら、なぜ、いまだに、はるかなる山河に戦死者を放置しておくのか?

さらに、ようやく収容した遺骨も、何とあろうことか、ひとからげに、氏名さえ記さずに大きな容器に入れて放り込んである。これでは戦死者も納得できないであろう。

自衛隊を、非武装にしてともない、遺骨を収容してはどうか。ボランティアの若者を呼びこむのもいいだろう。ついでに周辺地域の「地雷除去」を行い、国際貢献という手もある。こうすれば、どこからも文句は出ないであろう。収容した遺骨は、帰還に際して自衛隊による国歌吹奏で迎えれば、世代を超えた共感もわくであろう。

戦争で本当に失ったものとは


大正10年生まれを中心に、広範囲にとれば500万人ともいわれる日本の戦死者は、その同世代の女性との子孫を残すことはなかった。

およそ二世代におよぶ欠落した「世代」、さらに旧軍が好んで行ったさまざまな試験による選抜の挙句、その上位成績者から順番に戦死させるにいたるという愚行を行った結果は、とりわけ文系の分野において顕著だった。

戦後の日本の社会における、ある種の「軽さ」は、生きていれば、政治、経済、教育、報道、文学、哲学などの分野において活躍したであろう有為の人材を欠いたがゆえの結果だった。戦争で失われたもののなかで、もっとも哀惜をもって語られなければならないのは、じつはこれら文系の分野の担い手の喪失だったのだ。

一方、学徒出陣でも、理工学系学生が戦場におくり出されることなく温存された結果、戦後の経済復興を工業の復興によってなしとげることができた。

車の両輪をなす、文系、理系は、戦後、その片方が極端に小さいといういびつなままの再出発を余儀なくされ、迷走を開始したともいえる。

たとえば、数学者の藤原正彦は「日本は永らく文学の国だった」と言っている。平安時代、紫式部、清少納言、藤原定家などの「文学」は、その同時代の世界と比較すれば、圧倒的に隔絶したレベルだった。江戸時代には、一般の農民の家々にも書棚があり、識字率は90%近くの驚異的なものであり、国民すべてが「読書家」だった。

もし、作家の遠藤周作が愛おしさをこめて言っていた「あの連中」が戦後も生きていて、せっせと文学をやっていれば、戦後の「ノーベル文学賞」を、総ナメにしたかも知れない。知られているとおり、日本の「ノーベル文学賞」は二人だけと振るわず、そして何よりも、今や「読書」の美風はすたれ「教養主義」は流行らず、世はあげて「サブカルチャー」と「ヤンキー」化に向かいつつある。若い世代は、教養書などもはや見向きもしない。

作家の遠藤周作は、みずからを「ポツダム文士」と称していた。敗戦した日本の陸海軍は、終戦直後に、生き残った将兵に対して形だけの昇進を行い、世間はこれを「ポツダム大尉」などと皮肉った。「あの連中」が生きて活躍していれば、自分はとてもまともな「文学者」ヅラなど、できなかったというわけである。

ナポレオン戦争のあと、ロシアのトルストイは「戦争と平和」を書いた。第二次大戦が終わって、チャーチルは「第二次大戦回想録」を書き、「ノーベル文学賞」を受賞した。

日本では、あれほど大量の不条理と悲劇に遭遇していながら、つまり、文学の対象たりうるテーマがふんだんに眼の前にありながら、取り組んだのは「野火」「レイテ戦記」の大岡昇平、「戦艦大和ノ最期」の吉田満など、多くはない。

現代の日本の文学が、なぜかくも不毛なのかはさらに研究の余地があろう。

チャーチルは、何も余裕があって「回想録」を書いたわけではない。ヒットラーに英国本土を席捲される悪夢にうなされるような危機的な日々が長く続き、日本が参戦して(そして自動的に米国が参戦し、英国をバックアップしてくれて)、からくも、匕首(あいくち=ナイフのこと)が喉元から離れたという気持ちだったはずだ。窮地から、ほうほうの体でやっと脱した体験は、書かずにはいられなかったはずである。まさに間一髪、すんでのところだった。

英国国王や国民への責任が寝ても覚めても念頭をはなれず、「サンドハースト王立陸軍士官学校」に入る前の出身校だったパブリック・スクール「ハーロー校」の壁面にある
ノブリス・オブリージュ ─ noblesse oblige ─ 高貴なる者の義務
の言葉、さらに続いて刻印された戦死した卒業生のリストを、片時も忘れたことはなかったろう。「ノブリス・オブリージュ」とは、端的にいえば「(エリートたる者は)真っ先に戦死すべし」という意味なのだ。

チャーチルの「回想録」は、英国の宰相として祖国の命運を一手に握り、その生死の境目をたった一人で渡った者の、根底からの絶叫だった。

文学とは、そもそも、こういうものなのだ。

日本では、その他にも、生還さえしていれば、何ごとかを書いたであろう人たちがいたに違いない。たとえば、林 尹夫(はやし・ただお)和田 稔(わだ・みのる)がいた。書き残したものを見れば、彼らがどんなに透徹した知性を持っていたかがわかる。林、和田とも昭和20年、惜しくも、本当に惜しいことに戦没した。あと2か月生きていれば生還できた。ギリシャの伝説の英雄「トロフォニウス」が言ったという
神々の愛(め)でし者は、夭折(ようせつ=若くして死ぬ)す
を、地で行ったのである。

日本は、このような珠玉にもまさる貴重な人々を、多数、失ったのである。

理工学系の技術は、明治以降の日本がそうであったように、世界の先端をキャッチ・アップするのに、懸命にがんばれば百年で、さらにうまくやれば、アジアのいくつかの国がそうであるように、それ以下でできる。

しかし、文系の学問や、文化の伝統を根付かせ、何事かを創造するには、千年を要する。

いまや、YouTubeなどの動画で、米艦隊に次々に突入する特攻機の映像をいつでも見ることができる。あの大きく火の玉が炸裂した瞬間、彼らの生命が失われただけではなく、圧倒的な日本の将来そのものが同時に失われた。

あの戦争は、もしかしたら、千年の蓄積を、わずか数年で消尽(しょうじん)しつくしたのかもしれないのである。

失ったものは、かくも、大きかった。

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昭和18年10月21日、雨の神宮外苑で「出陣学徒壮行会」が行われた。 

濡れそぼつ競技場で、勇壮ではあるがどこか陰うつで悲しげな「陸軍分列行進曲」にあわせて歩調を取り、ぬかる大地を踏み鳴らし、泥水をはね上げての悲壮な行進だった。

同じ学生仲間であるはずの「指揮官」が張り上げるかん高い号令が、やがて始まる悲劇への慟哭(どうこく=声をあげて泣くこと)にさえ聞こえた。

足下の水面には、銃剣を装着した銃身のゆらぎと、隊列の暗いシルエットだけが、さかさになって反映し、そこからはもう、彼ら一人ひとりの表情は暗転して読み取ることはできなかった。

それはまさに、それからの彼らの暗い運命そのものだった。

眼差しが水煙に妨げられた。それが、おりからの降雨によるのか、時代に殉じる涙のゆえなのかも定かではなかった。  

勉強机には何度もなんども読み、さらについ先ほどまで読み返していた書物が、まだ開いたままにしてあった。また帰ってきて読むために...。

ぎこちなく銃を担い、隊列を組んで歴史の彼方に消えて行ってしまったあの人々は、地下において、この「靖国狂奏曲」をどのように聴いているであろうか。





1 件のコメント:

  1. たしかに日本の政治家は、軽いノリでやっているのが多い。
    今、わかったがこれが原因だったのか。

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