2017/08/10

マッカーサーの見たレイテ海戦

ダグラス・マッカーサーが、太平洋戦争(大東亜戦争)において敗北寸前となって追いつめられたことは、二度ある。

初期の「フィリピン・バターン半島」からの脱出のとき、それと、本稿で語る大戦末期の掉尾(とうび)をかざるにふさわしい「レイテ海戦」だ。

レイテ島に上陸するマッカーサー 1944/10/20


何を今さらこの歴史を語るのか。いささか「昔を今になすよしもがな...」の詠嘆と言えなくもない。

しかし問題は、たんなる感傷や感慨にふけるだけではあまりにも大きすぎるし、またそう単純ではない。なぜなら、この辺りから、その後のマッカーサーの日本に対する「畏れ(おそれ)」とも「リスペクト」ともとれる想念が、通奏低音のように流れ始める。あの尊大にして傲慢きわまり、鼻持ちならないマッカーサーにして、かくのごとくであったということである。

そして戦後すぐ会見のために来訪した昭和天皇の想定外の発言に、マッカーサーは完全に圧倒される。

したがって、大戦末期の「レイテ海戦」においてのさまざまなでき事は、マッカーサーの戦後における対日政策や、大戦終了後の数々の発言のなかに大きく投影しているといっても、過言ではない。だとすると、さらに現代の日本のあり方にも大きく影響したと断言できよう。

敵を誉めそやしておいて、その敵を撃破した自分はもっと偉いというよく使われる姑息な自己顕示欲の手法もあるが、それをマッカーサーがやるには、この海戦は歴史的事実としてあまりに大き過ぎる。

この視点に立てば、「レイテ海戦」は日本側が敗北はしたものの、その戦争目的を達成したともいえる。そして、人類史上最大の海空戦として、民族の神話として、ながく語り伝えられるであろう。

マッカーサー側はとんでもないお粗末な指揮系統


レイテ海戦における日本の主敵は、
  • 第7艦隊(指揮官キンケード、レイテ島タクロバンのマッカーサー指揮下)
  • 第3艦隊(指揮官ハルゼー、ハワイのニミッツ指揮下)
だった。ところがあろうことか、この両部隊の統一指揮は設定がなく、このことが米軍側に決定的な事態をもたらす。マッカーサーは憤怒をこめて述懐する:
その後に行われた戦闘は、指揮の統一を欠くことがいかに危険であり、重要な作戦で最終的な責任を負っている司令官(マッカーサー自身を指す)が作戦に参加している全部隊を指揮できない場合、いかに誤解が起こりやすいかということを、現実にしめしてくれることとなった。
 人間のやることは、すべて錯誤の連続である。この場合、日米双方に重大な「錯誤」が起きた。

ありえないことが双方に連続して起きる


鉄壁の布陣でレイテ湾に上陸した部隊を守っていたはずの米側艦隊は、それぞれ、日本側の巧緻をきわめた作戦にひっかかって、本来の持ち場を離れ、レイテ湾岸に上陸したマッカーサーの指揮する部隊の守備はガラ空きで、部隊は裸同然となる。日本側には、まさに千載一遇の好機が訪れようとしていた。

日本艦隊は艱難辛苦(かんなんしんく)のすえ南下し、ああ、ついに目的の、レイテ島の東に位置するレイテ湾直前まで殺到した。そして、湾岸に上陸したばかりのマッカーサー軍はなんの防備も持たず、あわや、あの「大和」の史上最大の主砲をはじめ多数の日本艦隊の砲撃のもとに壊滅するばかりの最大の危機がせまった。

ところがそのとき、日本艦隊は目前にせまった攻撃を突如として放棄し、反転して北上を開始した。あの有名な『栗田艦隊のナゾの反転』だ。

こうして日本側がこの戦いで勝利しうる機会は永久に失われ、マッカーサーは、からくもすんでのところで虎口を脱した。

このときのマッカーサーの胸中に去来するものは何であったか。史家はそれには言及することなく、またマッカーサー自身も何らの述懐を残していない。

しかし、背後からの決定的な致命傷となる一撃を、みずからの力量ではなく、たんなる偶然によってかろうじてまぬがれることができたという一事は、マッカーサーの燦然たる軍歴を誇る尊大な自尊心に深い傷跡を残すと同時に、日本恐るべしとの畏敬ともいえる想念を深く胸中に抱かせるにいたったに違いない。

なぜなら、そのときのマッカーサーは、戦争初期のバターン半島のときとは違い、万全の準備のもとに大軍を率い、完全な勝利の確信に満ちて戦いに臨んでいたからである。

さらに、マッカーサーの目前まで迫った日本艦隊は、途上や帰路において多大の損害を受けはしたが完全に撃破されることなく日本本土に多数の艦艇を持ち帰ることができた。

マッカーサーは、自らの盤石の布陣にもかかわらず敵に追いつめられ、さらにその敵を取り逃がす結果となったわけである。

そしてこれが、マッカーサーの後の対日政策に大きく投影したことと考えられる。

そして神話たりうる物語が残った


フィリピンおよびその周辺では、多くの海空戦や陸戦が行われた。戦後、フィリピンのミンドロ島からかろうじて生還して作家となった大岡昇平は、ぼう大な著書『レイテ戦記』にその全貌を書き記し、『野火』においてこの戦域の陸戦で倒れた多くの日本兵がたどったであろう悲惨な運命の物語を書いた。

個々の海戦のなかにはこんな戦いもあった。駆逐艦「初月(はつづき)」の最期だ。包囲されて傷つき退避する味方の小艦隊を助けるため、「初月」はただ一艦、独断で反転し、追ってきた敵艦隊に向かう。激しい砲雷撃戦のすえ撃沈され、生存者は皆無だった。包囲した米艦隊は、そのあまりに豪胆なふるまいに「初月」を駆逐艦とは考えずに重巡洋艦と誤認し、艦隊ごとほんろうされて足止めをくらう。その虚をついて味方艦隊は北上して退避に成功する。

平家物語や、楠木正成の湊川の戦いの絵巻物を見ているかのような、みごとなそして悲しい戦いぶりだった。

まさに、民族の神話を書き残してくれたと前述したゆえんである。われわれは、このような戦いをおこなった者たちの子孫であることを誇りとしなければならない。


 

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