ああ堂々の記者会見
ほんとうは「記者会見」ではなく「記者クラブ会見」
日本のすべての官庁・役所などには広報を担当する部署、たとえば「広報課」があって対外発表などの文書・資料はそこで作成・発表される。
問題なのは、その発表の方法である。
ああ、近世以前の...
ところが、それを受け取るのは国民や市民ではなく、なんと、あろうことか、21世紀にもなったにもかかわらず、特定の「御用商人」だけなのである。あたかも安物の時代劇にあるドラマ仕立ての前時代的な構造が、現在でも、昨日も、今日も、明後日も、この日本では連綿と持続して行われているのである。
日本では16世紀の後半ころには「楽市・楽座」政策が、織田信長などの戦国大名によって実行されて特定のギルドなどの市場独占を防ぎ、これにより円滑な経済政策をとることができた。当然、市場は活性化し、市中はにぎわった。
しかし、この「記者クラブ」は21世紀にもかかわらず、なんと、織田政権以前の前時代的なことを行っているわけである。世界に冠たる抱腹絶倒の事実である。が、しかし、事実を知れば、腹を抱えてわらっている場合でないことがわかる。報道各社は近代ではなく、中世に生きているのだ。
省庁、地方自治体、有力大学などが行う記者会見に出席し、資料を受け取り、質議応答に参加できるのは、「記者クラブ」加盟の報道各社に厳密に限定されているのだ。
つまり、「記者会見」ではなく、「記者クラブ・会見」なのである。
質議応答の多くは静粛におこなわれ、報道各社からの記者諸君は、それはもう、きわめて紳士的におだやかな対応に終始する。記者諸君はなぜ「静粛」なのか。それは、ある作業でご多忙だからだ。発表者が着席し、ほんの一語でも発言を開始すると、ほとんどの記者は即座にパソコンで入力を開始する。「締切」に間に合わせなければならないから、余計なことを考えたり発言したりする余裕など、あろうはずはない。「速記者」さながらにただひたすらに入力する。
なぜこうなったのか
そこにいるのは「気鋭のジャーナリスト」ではなく、ただの入力屋さん
発表者の一言ごとに、キーボード特有の、パシャパシャ、パシャパシャという低い音が追随して響くのみで、もし外部の一般の人々がこの様子を目撃すれば、その異様さに息をのまれるにちがいない。
たかがノートパソコンの微弱な操作音とはいえ、何十台ともなればその音量は異様である。
ああ、なんと、ご気楽な仕事であろうか。彼ら報道各社には、あの戦争での300万人の戦死者も、原発事故も、たんなる取材項目、いや入力原稿でしかない。もれなく入力して送稿するだけだ。
こんなことは他の欧米先進国の記者会見でも行われていると読者諸氏は考えるかもしれないが、それは、まったく違う。この状況は、ほぼ、日本独特の異様なことであることを知っておいてほしい。
ヨーロッパの某国で毎年行われる、著名で晴れがましい行事の該当者の選定について、その記者発表会場で、ただひたすらノートパソコンに向かって入力しているのは、日本からの記者のみである。
主催した発表機関側のスタッフは、下を向いて異様なキーボード音をあげるのみの集団に当惑ぎみだが、これがいかに異様なことなのかさえ、その日本からの記者らはまったく無頓着で素知らぬ風情だ。その異常さ加減は、世界の物笑いの対象になっているにもかかわらず...。
そして、彼らは全能感にひたり、無誤謬性 infarabiraty を確信してはばからない。ちなみに、この無誤謬性infarabiratyという言葉、この語彙(ごい)は、ヨーロッパでは「ローマ法王」のみを指す語彙として、歴史的に使われてきた。日本では、なんと「メディア法王」なのだ。
あの戦争は
かつて、戦争を煽ったのはだれであったか。新聞だった。
つまりは、発表機関側が、
「越後屋、おぬしもワルよ、のおぅ...」
と言い、御用商人が
「いえいえ、お殿様もなかなかなもので...」
とやりとりするような、こんな悪だくみをしているのではない。そんな度胸や度量、腹がすわった輩などどこにもいない ― チープで薄ぺらな連中ばかり。
何も考えず、ただただ正確に素早く入力しているだけなのだ。鋭い舌鋒も、深い洞察力も無用だ。つっこんだ質問などなおさら余計だ。ああ、面倒くさい、さっさと終わらせよう、と...。
想起するに、こんなことも...
ながらく続いた日中戦争のあげくに、日本は、なんとあろうことか米英を相手に戦争を始めた。この事実を、もし当時の良識と見識ある普通の市民が発表の現場に居合わせて聞いたとすれば、瞠目(どうもく)して言ったであろう ―― 正気ですか、あなた方は? ―― と。
当時のちょっと勉強している小中学生ですら、これをいきなり聞けば「勝ち目がないのに、なぜ?」と思ったに違いない。そして、この「判断」は正しい判断だったに違いない。
いや、当時の日本国民は戦争を望んでいた、という見方もある。しかし、出征した夫や息子の戦死の知らせが多くなるにつれ、国民のあいだに厭戦気分がまん延していたのは事実である。これを覆い隠し、戦争をあおったのが当時の新聞報道なのだ。
日本で重厚な真のジャーナリズムが育たなかったのは、きわめて残念であり、幾多の罪過を残してきた。
戦争を煽り、世をその惨禍に追いやり、負けると今度は自分たちだけは『良識』を装い、戦い破れ、ボロボロになった連中をたたく――これがその常とう手段。みんなペラペラの軽さ、変節ぶり。
そして、これらの正しい判断を封じるのが、今も行われている「記者会見」なのである。
なぜならば、出席の「記者」諸君は、これらの発表された記者会見資料を、ただひたすら受け流すのが仕事だと確信しているからである。
霞ヶ関という一等地にある省庁の建物の、見渡すかぎりの皇居の緑地に包まれ、見晴らしのよい最上階付近にデスクを与えられて、悠然とかまえることができれば、人間はだれしも全能感に包まれよう。ああ、オレは選りすぐりの報道機関の、選りすぐりの「記者」なのだ、と。
その記者クラブ室とは、税金を投入して作られた庁舎において冷暖房完備のうえ、「賃貸料・使用料」は無料。国家ぐるみの贈収賄である。これでは、何があろうと批判的に書くことなど、到底できはしない。御用新聞と成り下がるのは、当然であろう。こうして、すべての「新聞」は政府機関の広報紙となっているのである。日本のメディアは、なんと、今も、あの「大本営発表」の時代のそのままのスタンスで報道を行っているのである。
試しに「記者クラブ」の「記者室」へ行って、
ここのお家賃は、おいくらなのですかぁ~? さぞかし、お高いのでしょうねぇ~
などと、とぼけて、なるべく大声で、聞いてみるがいい。彼らは瞬時に、顔色が変わる。それは、後ろめたいからに他ならない。なぜなら、このことは諸法令に抵触していることは言うまでもないことだからだ。
そして、国家機関にとって、飼い慣らし、餌付けされた家畜となった「報道各社」を誑かす(たぶらかす)くらい、たやすいことはあるまい。なぜなら、挙げて「御用新聞」となっているのだから。
原発はどうなる
原発について、その安全性を省庁と一緒になって宣伝してまわったのは、どの報道機関だったか。
国家の命運、人間の生命にかかわるような重大事を、このようなあまりにも滑稽な構造に委ねておいてよいものか ―― 本稿では、これを問いたいのだ。
原発の問題は、明白に適切で充分な説明が行われていない。とりわけ、安全性においては、ほとんど「虚偽」がまかり通っているが、これを告発しようとするメディアは存在しない。
この尊大さ
ちなみに、日本記者クラブは、なんと、英語名称をJapan National Press Club と詐称している。
national という語彙には、
- 国の、国家の、国家的な
- 国民の、国民的な
- 全国的な
- 国立の、国営の
- 愛国的な、国家主義的な
という意味がある。いったい、いつから、国営になったのか。いつ、いかなる方法で、どのような手続きをへて「国民の、国民的な」機関となったのか。彼らは「国の」機関であることを誇示したいのだ。
なんという不見識であろうか。尊大にも、ほどがあろう。彼らの「常識」の異常さかげんが、ここに、いかんなく表現されている。