2020/11/24

後ろ弾-知られざる暗黒の歴史

後ろ弾(うしろだま)とは、戦場において背後から撃たれる弾丸―つまり、味方から撃たれる弾のことである。暴行をうけたことがある兵士が、復讐として味方を、しかも戦闘中に背後から撃つという行為である。

大日本帝国陸軍において、実際に行われたとされ、今や、まったく語られることのない暗黒の歴史である。

さらにはこれは、日本社会を投影したとのも言える構図であり、現代も問題とされる「いじめ」にもつながる病的な構造であろう。

精強な兵士を養成すると称して行われたのは

下士官などによる兵士への凄惨な暴力は、陸軍、海軍ともに行われた。

陸軍では、徴兵されて兵士となってすぐに行われた「内務班」(教育課程)での夕食後の点呼の際に連日、行われた殴打、また、海軍では「バッター」という木材で下級兵士の尻を殴打することがしばしば行われた。

いづれも兵士への「精神教育」と称して行われた、まったく理不尽で一方的な暴行だった。陸軍当局は、この理不尽な制裁を根絶するための通達をしばしば行ったというが、なくなることは、遂になかった。旧帝国陸軍に徴兵された一般市民がほぼ一様に語っていた、暴虐の事実である。

そして、これらの不条理に対し、しばしばそれへの反抗として実際に行われたとされているのが、本稿で述べる「後ろ弾」である。そして、これに近いことは形を変えて、現代でも行われているであろうことは想像に難くない。

陸上戦闘が開始されると、歩兵の場合は深く掘った塹壕(さんごう)に身を伏せるか、遮蔽物の陰に身を潜めるのが通常である。そのとき、前方の敵に対して遮蔽するためにざん壕に身を伏せるのであって、後方はほぼ無防備となる。そして、錯綜する前線では、命中した弾がどの方向から発射されたのか、にわかには判断しがたい。日頃から理不尽な制裁を受けていれば、目前に伏せる味方の下士官に対し銃口を向けたくなるのは当然であろう。

実際に、陸軍では中尉、少尉、下士官などの下級指揮官の「死亡率」がもっとも高いとされていた。彼らは、敵からも、そして時には味方からも銃口を向けられていたことになる。

これを「後ろ弾(うしろだま)」と称した。

タマは、前からばかり、飛んで来るものじゃないゾ!

が、いじめられ、追い詰められた兵士の絶叫だったはずだ。実行しても何の証拠も残らないからである。たとえ味方からの射撃による殺人が疑われても、それを表沙汰にすれば重大な責任問題となるから「不問に付す」しかなかった。また、前線ではそのようなことに対応する余裕もあるはずはなかったに違いない。

戦艦「陸奥」爆沈事件

海軍では、戦艦「大和」、「武蔵」に次ぐとされた戦艦「陸奥」が、大戦中に瀬戸内海の柱島に停泊中、「事故」で爆沈したとされている。真の原因は現在にいたるも不明であるが、もっとも有力な説として「放火」による火薬庫爆発という内部犯行が疑われている。

 辻 政信 ―― 狂気の大本営参謀

大日本帝国陸軍の軍人で、大本営参謀だった辻政信(つじ まさのぶ)は、日本軍とソ連軍の衝突した戦闘である「ノモンハン事件」において、日本側の敗戦が確定したとき、日本軍の前線において負傷してかろうじて収容され、重傷であえぎ苦しむ部隊指揮官らの野戦病院のテントを次々に訪れ、「自決」を強要したとされる。

辻は、後世の史家から、たんに暴虐であるばかりでなく異常に名誉欲が強く、その狂気と異常性を指摘されている人物である。

辻は、自分より階級が上位にある立場の者に対してさえ、究極のイジメをおこなったのだ。そして、これらの陰湿きわまる所業は戦後になって、報復を受けることになる。海外で「取材」中に、辻は行方不明となったとされているが、その真相は不明のままである。

著述家の山本七平は、自らも陸軍少尉としてフィリピン・ルソン島の戦いに参加し、その壮絶・悲惨な経験にもとづき、絶望の戦場にあっても淡々と責務に立ち向かう「心優しき」指揮官と、辻のような狂気と虚勢のみの暴虐な指揮官の双方を、淡々と描写している。

そして驚くべきことに、山本は、日本軍は敵と戦闘を開始する以前に、これらのヒステリー状況によって、自ら自壊し、壊滅していたとさえ述べている。

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