記者クラブにともなう抱腹絶倒と滂沱落涙(ぼうだ、らくるい)
日本のいちばん長い日
ー 運命の八月十五日
という映画作品がある。原作は、ノンフィクション作家の半藤一利。映画では、昭和天皇を大木雅弘、反乱軍首謀者の畑中少佐を松坂桃李、鈴木首相を山﨑努が演じていて、なかなか見ごたえのある作品である。そのなかで、日本の連合国側への降伏の受諾を決定して、翌日には天皇の録音による玉音放送、さらに新聞発表を行うという段階にまで至って、首相官邸の書記官長は、並みいる新聞記者たちを集め、
(玉音放送が行われる)翌日の正午までは、絶対に新聞発表せぬように。と宣言するシーンがある。そう、これこそ今に至るも、相も変わらず続いている「記者会見」の様子をよく伝えているシーンと言える。
この「終戦の詔勅」にかかわる経緯はともかく、問題は、現代においても、ほぼすべての日本からの報道が、この通りに行われているということにある。
メディアの重責を担うという気概も、批判精神にともなう緊張感もまったく感じられない。むしろ「記者クラブ」に在籍しているという特権意識に酔いしれている、鼻持ちならなさを感じさせるだけである。
さらにまた、かつて、凶弾に倒れた、故ジョン・ F・ケネディアメリカ合衆国大統領は、エール大学でのスピーチでこう述べたという。
真実の敵は嘘そのものではない。むしろ、得心できるほどにしつこく繰り返される「神話」である。非現実的な神話のほうが、計画的につかれた嘘の数々よりも危険である。 (出典= ハミルトン・フィッシュ: 「ルーズベルトの開戦責任」渡辺惣樹 訳、草思社)この鋭い指摘は、我々を戦慄せずにはおかない。これはまさに、日本における「記者クラブ」が日常的に行っていることだからである。
まさに日本の「記者クラブ」とは、神話がもたらすご託宣(メッセージ)の忠実なメッセンジャーであり、記者クラブ室とは、その神殿(あるいは、伏魔殿?)なのである。
鋭い知性と良識を持った記者ばかりであればまだしも、そうでなければ、たとえばこういう事も起きる。
世界に恥をさらした日本のジャーナリスト
かつて、日本のノーベル賞受賞者にかかわる公式記者会見がストックホルムであったとき、ある日本からの記者は、質疑応答の時間になり元気よく真っ先に挙手し「賞金は何に使いますか?」と質問したことがあった。
その瞬間、会場には、各国記者団からの失笑と、司会者の舌打ちが響きわたった。
財団司会者は冷たく「そのような質問は受け付けられない」と却下。当の記者氏は(日本語で)「何でぇ?」と悪態をついたことがあった。
質問したのは、どこの報道機関か、質問者は誰であるかは、ここではお伝えしないが、その後、たいそうご出世されて、日本の国務大臣まで務められた人物なのだが...。しかし、彼らはこの程度なのだ。嗚呼!
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