2020/11/03

野火:大岡昇平 ‐ を読み解く

地獄のフィリピン戦線、そこで大岡が見たものとは

大東亜戦争(太平洋戦争)を一兵士としてフィリピンに出征し参加した文学者、大岡昇平による作品『野火(のび)』は、かつて二度、映画化された。そして『野火』は、飢餓もしくはその状況下でのガリバニズム(人肉食)を語るとき、かならず引き合いに出される。(単行本、文庫本、どちらでも刊行されている。ぜひ、ご一読を。)しかしこれは、きわめて皮相的な見方である。大岡が言いたかったことは、おそらくそうではあるまい。

大岡自身は、社会人となって結婚もしていたところを「臨時召集」で陸軍に入り、すぐにフィリピン、ミンドロ島へ派遣される。最初の戦闘で部隊は壊滅し、わずかな生存者も四散する。その後は飢餓とマラリアで苦しみながら戦場をたった一人で彷徨する。後に自身の文学作品「野火」において描写されている世界である。大岡に餓死が迫っていたころ、米軍に収容され死をまぬがれることができた。これが、たんなる偶然にすぎないという現実の不条理さが「野火」において通奏低音のように流れる。

近代の日本は欧米から多大な文物を導入し、とりわけ科学技術については顕著である。それとともに「精神」の問題はその根拠となる何ものかを失ったままの、いわば、安直に良いとこだけを摘み取る「良いとこ取り」であった。

 飢餓状態となれば、糧(かて)となるものならば何であろうとも口にすることは、生物であればなんであれそれをさえぎるものはありえない。ただ、人間であれば、そこで深刻な苦悶に直面することになる。大岡が書き記したかったことは、それであろう。

このとき、ひとは全能の何ものかと対話せずにはいられなくなるのだ。人間としての根底からの絶叫だったのだ。

それは、つまり『神』との対話である。

それはイエス・キリストが「荒野」において、あるいは、「ブッダガヤ」におけるガウタマ・シッダールタ(仏陀、釈迦、釈尊)の対話に通じる。

大岡がもっとも言いたかったことは、この絶対者との対話であったろう。映画化された作品では、この最重要事項が、あろうことか、あっさりと切り捨てられていて跡形もない。

宗教国家としての日本

現・近代人である自分が、何をいまさら『神との...』なのだ、と、読者諸氏は考えるにちがいない。ところが、これは違う。およそ近代社会を形成している先進国で、もっとも宗教的なのは日本である。

これを言うと『唖然!』とされるかもしれないが、日本は「アニミズム」という宗教に今もどっぷりとつかった状況である。

なぜなら、何かというとすぐに「空気」に言及するではないか。われわれ日本人の多くは、「宗教」とは関係ない、関わりたくない―などと言うひとは多い。しかしながら、われわれ日本人は世界でもっとも宗教的な人種だ。これを言うと驚くひとも多いが、欧米のキリスト教徒、中東のイスラム教徒からすれば、この日本の状況は「宗教的」そのものなのである。

日本は民主主義国家ではない。「空気主義」国家である。つごうの悪いことや説明が難しいことは、すべて「その場の空気で...」という説明で納得してもらえる。「空気」絶対主義なのである。平安の昔、天皇がお住まいの御殿の上空に現れたという、鵺(ヌエ)という怪物の実在を語る世界観と、概ね、大差はない。

これは、西欧の概念からすれば、宗教と呼称するのである。他に対応しうるいかなる用語terminologyをも見出だすことはできない。

大気組成のほとんどは窒素、二酸化炭素、酸素である。 そのどこに、人間に思考を規制するドグマが書かれてあるのか。日本社会においてのみの、世界に冠たる驚くべき思考方法なのである。

空気が無謀な作戦を?

戦後になって、かつてのある日本海軍参謀は「戦艦大和の沖縄への特攻出撃は、その時の『空気』による」と述べたそうである。
 
なんと「空気」という無形の存在により、4千人近い人々が無駄に死なねばならなったというのだ。責任回避もはなはだしい、たんなる頓辞(とんじ:言い逃れ)にすぎない卑劣で無責任な言い訳も、これで通ってしまうのだ。

そして、この聞き苦しい言い訳は、欧米各国語、イスラム文化圏の言語には、ほとんど翻訳不可能でさえあることを忘れてはならない。


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