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2022/06/11

歴史はなぜ進化しない ― ウクライナ戦争

ここでは、他では論じられることのない側面から、ウクライナ戦争、ロシア…について論じる。

歴史は、人類は、はたして進化したのか

ウクライナにおける、ロシア:プーチン政権の蛮行を見ると、はたして人類は進化しているのか、いや、あるいは退化しつつあるのではないかと、はなはだ疑問をいだかざるをえない。

かつてヒットラーやスターリンの行った所業に勝るとも劣らない、言語に絶する所業の数々に、これが本当に21世紀における出来事なのかと、暗澹たる思いを抱かざるをえない。

 ロシア軍戦車の前に立ちはだかって見せよ

さらに重苦しい思いになるのは、知識人ら、ローマ教会などの宗教勢力、などからも、何らの動きや声明も伝わってこないし、身を挺して解決に立ち向かおうとする政治家や機関もない。いったい、どうなっているのか?

そして、悲しいかな、国連はまったく機能していない。識者やマスコミなどでも、この無能さ加減を言及すらしない。ローマ法王など、ウクライナへ飛んで行って、ロシアの戦車の前に立ちはだかり、「私を踏み越えて見せよ」と、啖呵(たんか)を切ってみせてもいいだろう。そうすれば、世界中がこの大団円に拍手喝采するであろう。聖堂の奥深くで線香臭い祈りを唱えるばかりが仕事であるまい。 キリストが、もし現代のこの世に生きていたなら、こんな教会は見限るだろう。

イエス・キリストは、かつて、「罪深い女」が民衆による石打の刑に処されようとしたとき、その前に立ちはだかり、

罪をおかしたことのない者だけが石を投げよ!  

そして、私がそれを受ける。

と、言って見せたではないか。そして、石を投擲しようとした者たちは、ハタと立ち止まり、立ち去ったと、新約聖書には書かれている。

私、筆者が、このセリフを描写する物語を聴いたのは、はるか昔、幼稚園児のころであるが、イエスの、そのあまりのカッコよさに涙したものである。

また「この状況をふまえ…」として、軍事力の強化や言論の統制などという、あらぬ方向へ舵を切ることが懸念される。このような国際的背景が存在すると、かならず言い出す輩(やから)がいるのである。 

そんなことは、あとで、先ずは、ウクライナを救うことだ。ウクライナが壊滅すれば、こんどは世界の穀倉であるウクライナが機能しなくなり、地球規模の飢餓が発生することとなろう。もう、どこにも平和な暮らしなどありえないことになろう。

もう、すぐそこに深刻な飢餓が迫っているのだ。


2018/12/09

移民による労働力依存は亡国の第一歩

日本は移民により、安易に新たな労働力を獲得しようとしている。そもそも、かくも大胆にカジをきる必要があるのだろうか。なぜ、こうなったのだろうか。

また、それにより何がもたらされるのだろうか。それを論じてみたい。

「品質」についての過剰で貪欲で異常な要求


コンビニ・スーパーなど小売店における消費者の品質への要求は、必要な限度をとっくに超越し、その実態はもはや、世界屈指の異常な状況になっている。コンビニなどへは「品質・鮮度保持」と称して、一日に何度も少量づつを配送するために車両、そして人員を配備し、それを駆動するための多大な燃料を消費しているのである。

これが物価を押し上げていることは言うまでもなく、また、ぼう大なの労力と資源を必要としていることも容易に理解できることである。これらの「労力と資源」は、間違いなく、まったく無駄に浪費されているのである。

また、日本の生産物の「品質」は世界一であると誇らしげに豪語しているが、これは同時に大量の資源と労力を浪費していることと表裏一体なのである。「品質保持」を実現するため、大量の廃棄物 ―― 消費期限切れと称して ―― が発生しているのである。

嘆かわしいのは、このことを論点とした経済学者など専門家、流通のプロからの提言・指摘がまったく聞こえてこないことである。いったい、彼らは何をしているのか?

日本人は、ピカピカの製品、みずみずしい野菜、やわらかな精肉、出来立ての料理...が、あたりまえで当然とするようになった。これは、一面において大いなる堕落である。ほんの少し前の日本人は、一粒のコメを、大切に食べていたのものだ。日本人の精神構造は、ある時点で、完全に崩壊したのだ。

古代ローマ帝国がなにゆえに滅んだか? 帝国全土から流入する物資をふんだんに消費し、市民は競技場などでの連日の遊興を楽しむのみで、生産・建設への気風を失ったからに他ならない。では古代ローマ市民は必要とする労力をどこから調達したか? 属州からの「奴隷」の調達でまかなっていたのである。

今回の日本の選択に、相似形で重なるのであろう。

そして、そもそも、まったく論じられないことであるが、われわれ日本人は悲しいことに、組織だって「人肉」を食べざるをえなかった人類最後の民族なのである。フィリピンのレイテ島、ルソン島、ニューギニアの島々などにおいて...。ほんの70年前のことだ。

「野坂昭如『火垂るの墓』は、つい昨日のことなのだ。

その、ほんの少し以前までろくに喰えもしなかった日本人が何を血迷って、ゼイタクをするのだ。

「徴用工問題」すら解決していないのに...


現時点で日本で労働する「技能実習生」すら、やがて母国に帰り、しばらくしてその時点での日本人一般との労賃の格差についてこれを「未払い」とし、大規模な訴訟を起こすであろうことは想像に難くない。その覚悟はあるのだろうか。

さらに、先の大戦までに某国などから調達した労働力について、その支払を求められている(徴用工問題)。これについて解決の端緒すら見出すことができないでいる。幾度も、どのような「解決」を講じても、彼らは何度でも「未払い」と称して請求してくるのである。

これらを解決することすらできていないのに、いったい、どうするのだ。

日米近現代史研究家の渡辺惣樹氏は、
移民との蜜月は長く続かない...
として、日米間のあの戦争も、日本からアメリカへの移民が原因の一つだったと、鋭く指摘している。(2019/01/16 産経新聞)

欧米の植民地主義の結末は


ロンドンやパリは、もはやかつての精彩はない。かつて「花の都」と謳われたパリは、いたるところゴミだらけであり、裏通りは異様な臭気に満ちている。日本はこのような選択を、今こそ行おうとしている。

さあ、どうする。それでも、やるのか?



2018/05/02

日本、英語ができない最大の理由

さらに再び、前節 
でご登場の「スイス在住のある世界的に著名な科学史研究者」のご高説を拝聴しよう。

われわれ日本人は、なぜ英語ができないのか ―― その2

日本だけが反対方向へ向かった ―― 「解体新書」とその方法論


『解体新書』をご存知だろうか。

江戸期、鎖国している時期にオランダ語から翻訳された解剖学の医学書である。この本、実は原著はドイツ語で刊行され、オランダ語版はいわば「海賊版」だったのである。オランダ商人からフッかけられて大枚な値段で買わされた、きわめて怪しげな文献だった。

あの科学史先生がのたまうには、日本の科学、文化はこの書籍、さらにその後の科学技術に対しても、世界の他の文化国家が一様にたどった歴史的経緯とはまったく反対の、とんでもない、あらぬ方向へ向かった、という。

世界標準では、このような圧倒的な力量をもった文物・文献が目の前に現れれば、それを研究するために、その言語に向かう、つまり先ずはその言語を習得する、さらに自己の文化圏内にその人口を増加させ、対象とする言語と一体化することによって、その文化・技術をわがものとする ―― この方向へ向かう。

しかるに、あろうことか、日本ではそうはならず、ひたすらそれを日本語化することによって、わがものとしようとした。 したがって 『解体新書』導入時において日本語に存在しない述語・専門用語、たとえば、骨・筋肉の一つひとつに付けられた、ラテン語の学術用語としての名称、ぼう大な数であるが、これに、いちいち日本語の漢字表記の述語を考案して名付けていった。

翻訳した杉田玄白・前野良沢らはこの労苦を
櫂(かい)や舵(かじ)の無い船で大海に乗り出したよう...
であると形容した。ふつうに「翻訳」と現代のわれわれが考える作業量の数十倍、いや数百倍であったろう。そして明治期以降も、この作業は多くの他の分野の専門書・技術書に対しても、連綿として続けられたのである。

しかもこの「解体新書・日本語版」は、なんと、古色蒼然(こしょくそうぜん=古めかしい)たる「漢文」で書かれていた。この時期、日本語の正式の文書とは、漢文だった。

吉田松蔭が、黒船として浦賀に来航したポーハタン号に国禁を犯して乗り込み、その乗員と筆談したとき、『漢文』で行ったことを想起してほしい。(松蔭は英会話ができなかったとされている) 「学術書」やあらたまった文書は漢文でしるさなければならないというのが、その当時の通例だった。

つまり、当時「最新科学情報」であるはずの医学書の刊行が、ああ!なんと、千年以上も前の「古式にのっとって」行われたのである。

そして、かの科学史先生は、いずれにせよ、これこそが、この方式こそが、
  • ぼう大な無駄と徒労で、まったく無意味
  • 日本人が英語ができない、決定的で持続的な原因・理由を確立した
と批判する。

つまり、日本は、英語など外国語の世界に入っていくことをせず、日本語のなかに、複製あるいはイルージョンを作ったと批判しているのである。とにかくこれが、
  • 世界の文明国の歴史に類例が存在しない
としている。それだけではなく、その後、このことにより国際的な孤立をまねき、
  • 第二次大戦で孤立し敗北
につながったと断言する。(これらの是非についてはここでは論じない。将来、別稿で書くとしよう)

想起してみるがいい。ローマ時代、ガリア人が、ローマの文物をガリアの現地語に翻訳して流布した例があっただろうか、そんなときは、みんなラテン語を学んでそれでそれを勉強したのだよ、という。それが学問というものだ、と...。

いずれにせよ、それ以降、すべての欧米からの科学技術情報やその他の分野の学問情報の移入は、この方式で行われた。 これが決定的な運命の分かれ目だったといえる。

そして、やや雑駁(ざっぱく)に言ってしまえば、日本ではこの方式が「日露戦争」に間に合った。ロシアを撃破できたことは、この方式が間違いではなかったことの何よりの証左であった(と、当時は考えられたのだろう)。


原爆の存在を予想すらできなかった、日本の最優秀の参謀


開戦に際しては『真珠湾攻撃』の攻撃隊隊長をつとめ、その後は、巧緻(こうち)をつくした作戦といわれ、マッカーサーを捕虜にしたかも知れないといわれた『捷一号作戦』を、参謀として策定した、きわめて真面目で真摯で優秀な軍人がいた。海軍大佐、淵田美津雄である。

しかしこの人物は、広島・長崎に原爆が投下されたとき、その物理学的な『原子力』の知識の片鱗すら持っていなかったと、戦後、述懐している。海軍総隊、および連合艦隊の参謀ともあろうものが、である。

敵が作っているであろう新兵器について、たんにその実戦配備を予想できなかったばかりではなく、その存在の可能性を想像することすらできなかったのだ。

日本における『専門家』とは、つねに、このパターンを踏襲する。自らの専門性ゆえに、そのわずか1センチとなりに位置する、あるいは、その先にある、より本来的で本質的な目的性が視野に入らず、それにより、自らのレゾン・デートル(存在理由)を見失うのだ。

『優秀な参謀』を自認するなら、原爆の可能性について言及し、対策をたてるべきであったろうし、そもそも、無謀で勝ち目のない戦争であることを提言すべきであった。敵が何をやっているかについて何の知見もなく、こちら側の価値基準のみで戦争しているという、お粗末きわまるありさまだったわけである。

つまり、淵田参謀が戦っていた「敵」 は、現実の「敵」とは、まったく乖離(かいり)していたのである。さらにまた、淵田とそのスタッフが、生(なま)の英語で敵側情報を同時進行的に解析していれば、原爆の存在を知ることができ、その時点で降伏することもできただろう。

日本における英語環境、英語教育は、完全にこのパターンを踏襲していると言える。

本来的で本質的な目的性について、全世界から旺盛な要求を突き付けられていながら、それが見えない、まったく見ようとしないのだ。

「国際的な英語教育...」を標榜する連中が、それが世界的な物笑いの対象となっていることが、まったく見えないのだ。

英文解釈、英文法、英作文に固執し、その技術を偏差値化することに没頭し、英語教育の本来の存在理由を否定をしてはばからない、というわけである。

この「受験産業」の「商売道具」としての「英語」を、21世紀にもなって、いつまで、続けるつもりなのか。つまり、今や世界中で共通語として飛び交っている「英語」と、現実に学習すべき対象としての「英語」が、完全に乖離していることが理解できないのだ。そして、世にもめずらしい、世界的にも珍無類、「英語ができない英語教師」が、学校で堂々と英語を教えるということになるのである。

淵田参謀が戦っていた「敵」と、現実の「敵」が、乖離していたごとくである。

ある日本のコメンテータは、こういう。ネイティブが話す英語で
  • we can
  • weekend
は、何度、聴いても判別ができない ―― と。

ただ、わずかな相違を聞き分けることは、ネイティブでも難しいらしい。前後の脈絡で判断しているにすぎない(らしい)。こういうことは、英語ができる、できないの本質的問題ではないのだが...。

奥行きはあるが幅がない近視眼的思考


さらに加えて、日本は科学技術において、日本語で、世界標準を凌駕しつつある ―― この確信が運命の分かれ目だった。いわゆる「高度経済成長」のときである。

しかし、この方式が『世界標準』でないことは、はっきりと何度でも強調しておこう。その是非の判断は、賢明なる読者諸氏におまかせする。

しかし、日本がおちいりやすい行動様式として、なにゆえ、「袋小路 dead end」におちいるのかは、今後も大いに反省と研究の余地がある。

LED技術を基礎にした液晶テレビは、日本のメーカーが世界をリードした。しかし、今はその勢いは片鱗もない。

「ウォークマン」で世界を凌駕したメーカーが、なぜ、その次世代の i-Tuneやi-Phoneを作れなかったのか。世界最大の口径をもつ戦艦を作る技術が、なぜ、航空戦を想定することができなかったのか。これを挙げれば、数限りない。



2017/08/03

記者クラブ ― 日本をダメにする最悪のメディア集団

日本のメディア、本当のすがた


日本でただ一つ、天気・気象・地震火山をあつかう省庁が存在する。読者諸氏もよくお世話になっているはずのあの機関だ。

さて、このお役所、つい最近まで、毎日、夕方になると「飲み会」が庁舎内で盛大に行われていたのをご存知だろうか。

24時間3直勤務であり、年間を通じて業務に途切れがない ―― これが、庁舎内で飲み会をおこなわざるをえないのだ!という理由だった。それに、都心だから、ちょっと外に飲みに行っても、随分と高いし...。

連日、夕闇がせまるころ、庁舎一階のメイン・エントランスを入ると、各階の湯沸室で焼く、シシャモやアタリメなどの酒のサカナの臭いが立ち込めていたものだ。地下の「売店」が、20本入りのビール瓶ケースを各階のフロアへ、大きな台車を使って搬送するときの、独特のガシャンという音が、一日中、庁舎内に反響してこだましていた。各階の湯沸室には天井までビール瓶ケースがうず高く積まれ、翌朝にはそれが全てカラになる ―― これが毎日の繰り返しだった。

ある意味、アンニュイで平和な日々。これでいいではないか...。

ところがある日、ある所要で、とあるアメリカ人をともないこのお役所を、夕方、訪ね、一階エントランスを入ったとたん、この外人、驚愕していわく ――
この悪臭は何の臭いだ? エッ、飲み会? オードブルを焼いている?  一体、何のパーティーだ、仕事中ではないのか?
何をやっているんだ。ここは日本の政府機関ではないか! アメリカなら大問題になって、一斉に納税拒否が起きる。 アメリカの政府機関でこれをやれば、全員、間違いなくクビだ。
日本人は「クソ真面目」な連中と聞いていたのに、これは何だ。世界最低だ!
それに、オマエ、バカか! なんでこんなこと、だまっているんだ。
言っておくが、この外人さん、決して品行方正な人物ではなく、日本で立場を利用して数々の女性と問題を起こし、筆者も手を焼いていた不良外人。その彼がア然とする体たらくだったということだ。

ではなぜ、これが可能で、なぜまったく、一度として報道されることがなかったのか?

これぞ世界に悪名高き、記者クラブ制度


それは、この官庁には
〇〇省(庁)記者クラブ
という報道機関(新聞・通信社・テレビ各局 など)の組織があり、あろうことか、省庁の建物内に居候して(つまりは、なんと、家賃タダで居座って)、省庁とは親密な関係を仲良く保ち、「記者会見」に出席する権利を排他的に保有し、そこで報道資料の配布を受け、皆さん、不都合なことは質問・糾弾などせず、おだやかに紳士的にふるまっていたからだ。

そりゃ、そうでしょう。「おりこうさん」にしていないと、記者会見でプリントを配布してもらえないもの。

記者クラブに所属しない、いかなる団体も、上記の記者会見に出席できず、資料などの配布も受けられない。

毎晩の「(ないしょの)飲み会」など暴露しようものなら、大変なことになって、記者会見に出られなくなるもの...。この「飲み会」、いつから行われていたのか、文献を渉猟しても(探しても)見つからない。戦前から、ですかね...。

こんな状況では、地震も津波も、的確な予想などできるはずはない。

日本の政府機関が、こういう点でまったく異常なのは、批判する視点に立った指摘・報道、つまり、メディアのあるべき本来の活動が行われず、いわば、メディアが政府機関の「広報課」のような存在となっていることだ。

もう一つ、少し古いが、これまた驚愕の事例を述べておく。

昭和17年(1942年)、すでに太平洋戦争(大東亜戦争)が開始されていて、戦地では熾烈な戦闘が展開中だった。

その時期、『外交官交換』という各国間の取り決めにより、アメリカから中立国を経由して帰国した日本のある外交官(陸軍軍人:実松 譲 (さねまつ ゆずる:在米大使館付武官補佐官) )は、帰国早々のある夕方、霞ヶ関の陸軍省へ行ったところ、あろうことか、
六時に、陸軍省の灯りが消えていた。
と、なんと、驚愕の現実に直面して唖然とする。そして 日本の陸軍中枢がすっかり
サラリーマン化していた
と、批判している。そして、この体たらくが報道された事実は、一度として、存在しない。

それはなぜか? それはすべての報道が「大本営発表」に一元化されていたからだ。

つまりは、「記者クラブ」とは、「大本営発表」と同等の機能をもつ、諸悪の根源なのだ。

そしてさらに、ちょうど同じ時期、英国では国運を賭けた英独戦、いわゆるBattle of Britain(英国の戦い)の真っ最中であり、ロンドンは連日の激しい爆撃を受け、
戦時、ロンドン、財務省地下、チャーチルの戦争指導部は、六畳一間ほどの部屋、チャーチル以下、閣僚、参謀クラスが泊まり込みで戦時指導体制
となっていた、と実松 譲は指摘している。 これでは日本としては、勝てる戦いも負けようというもの。日本の新聞は、要するに「提灯記事」ばかり書いていたということだ。日本の三百万人におよぶ戦死者は、この陸軍中枢のこのご気楽加減・堕落ぶりを知れば、 地下において「安らかに眠る」ことなど到底できないであろう、に...。

現在も同時進行で、こんなことが起きているのであろう。

さらについでながら指摘しておくと、日本の帝国海軍では、艦船においては「酒保開ケ」の命令があって始めて「飲み会」が行われ、こっそり「飲み会」など、とんでもないことだった。「吉田満:戦艦大和ノ最期」に詳しくその描写がある。

どこもかしこも、記者クラブ


さらに、日本において最も著名な〇〇大学においても存在する。必要があって、資料をもらいに行っても
「配布対象社は、記者クラブ社だけです」
と、何度、門前払いで追っ払われたことか...。記者クラブの、優秀な報道各社の記者諸兄の心中を察するに:
配布されるプリントを文字に起こし、記事にすれば、仕事になるのである。ああ、なんと楽しげでラクな仕事であるか...。アンニュイで怠惰な日々、天下国家がどうなろうと知ったことではない ―― オレは正しく『資料』に基いて記事を書いている
ということなのだろう。

これではいけないと考えるが、記者クラブの諸兄よ、異論があるなら、受けて立とう、ぞ。


2017/07/03

日本のメディア-- 先進国で最低、トホホの報道機関の実態

これでいったい『自由主義国家』なのか日本は


新聞、テレビ、その他のメディアで毎日、報道されていることがいったい、どこまで本当なのだろうかと考えたことはないだろうか。そう、ここで書くことをみれば、その実態たるや、ア然とする事実があまりの多いことに気づくはず。

分析してみれば、日本のランクは、トホホの72位 


報道の自由度ランキング       
(↑ リンクあり、クリックを!)
http://ecodb.net/ranking/pfi.html
に掲載のデータによると、現在、日本は、なんと、世界で、72位。

このランキング、
報道の自由に対する侵害について、法的支配やインターネット検閲、ジャーナリストへの暴力などの項目で調査されており、侵害度が大きいほど指数は高くなる。
という方法で査定されているそうである。

韓国(63位)日本の9位上方に、韓国が63位に … ウム、惨敗だ。思わず切歯扼腕(せっしやくわん)。
中国(176位)、共産国家なのだから仕方ないか。
北朝鮮(180位)、は資料中の最下位。これもお国柄だから。
アメリカ(43位)
イギリス(40位)
ドイツ(16位) ―― さすが。
カナダ(22位)、ちょっと、意外。
ロシア(168位)、やっぱり...。

1ケタ台をしめるのは、北欧などヨーロッパの国々。さらには、コスタリカ、ジャマイカも10位以内に。日本の順位の前後には、何やら危なげな国々が並ぶ(失礼をお詫びするが...)。

日本の順位、なっとくできる? 


この日本の順位 ―― 読者諸氏におかれては、到底、納得できるものではないはず。

この状況は、一言でいえば、日本は『報道管制』の下(もと)にあるということである。というと、多くの人々は「ありえない!」と考えるであろう。しかし、データにもとづいて分析した確たる真実なのである。

日本の食べ物が美味しい...世界から訪ねる人々が多くなった...などと、浮かれている場合ではない。

これはつまり、日本人は、日本のなにものかに手繰られている、ということである。 日本は
不自由主義国家
であるということである。

しかし、どうして、なぜ?  その『なにもの』とは...?

先の大戦のときの『大本営発表』という報道のやり方を、今だにやっているということなのか? 
あるいは、他にも何かあるのか?

さあ、いよいよ核心に迫ってきた。
次稿で詳しく書こう。なんだか、新聞代、返せ!と言いたくなる。

2016/10/03

英語!抱腹絶倒、滂沱(ぼうだ)落涙の英語オンチ物語

われわれ日本人は、なぜ英語ができない


かなり以前のことである。ある日本のメディアの女性キャスターがブータンの奥地の村落を訪ね、山村のごく普通の民家に宿営するというドキュメンタリー仕立ての民報のテレビ番組があった。そこで、おそらく小学校3年生くらいと思われる現地の女の子と同宿して、現地の暮らしを紹介するという筋書きだった。峻険な山並みと谷筋が交錯し、家々をつなぐのはヒトがかろうじて歩いていけるだけのか細い道だけだ。日本でいえば、北アルプスの山小屋を訪ねるというような風景だ。

ところが、ほんの少し進行したところで、がく然とする事実に直面することになる。なんと、女性キャスターが手繰るたどたどしい英語に対し、その女の子は、驚くべきことに流ちょうな英語でよどみなく話しかけたのだ。話すことに何の不自由さも感じさせない。おそらくは日本のそこそこの大学を卒業して放送の業務についたのであろうキャスター氏は、ああ、まったく歯がたたない!

そして、見ていてまことに不愉快なのは、その女性キャスターがあくまで相手の子どもを、僻地に住む未開で素朴な山村の住民と決めつけて、その子がかなりのスピードで話しかける英語にまったく向かい合う姿勢が見られず、取り合わない(取り合えない)ことだった。まるで「こんなことは、ありえない」と言わんばかり・・・・・・。

おそらくは、まったくの想定外だったのだろう。キャスター氏の望んでいたのは、まさに「世界のはて」の、文化果(は)つる未開な集落での、いわゆる『原住民』的な対象を取材するという、上から目線の対応だったのだろう。とうの小学3年生嬢は「何で応えてくれないのだろう」と言わんばかりに、キョトンと当惑している。

はっきり言えることは、あの女の子はその翌日にニューヨークに引っ越しても話すことに何の問題もないが、 あの女性キャスター氏はできないということである。こんなことがなぜ起きるのか。

その昔、ブータンでは多数の現地語が存在していた。つまり、となり村へ行くために谷筋一つ越えれば、まったく言語が通じないという有り様だったのだ。この地方を植民地として進駐した宗主国の英国は効率的な支配を確立するためEnglishを公用語とし、学校教育も英語で行うこととした。つまり、あの小さなかわいい女の子の通う山の小学校では、あろうことか、すべての授業が英語で行われていたのだ。

そして、なんと日本では現代の大学においてさえ、ああ、今だに「現地語」で講義が行われているというのに...。

日本の大学は、はたしてUniversityなのか


この項目で述べることは、そのほとんどは、スイス在住のある世界的に著名な科学史研究者の主張・学説である。しかしながら、この先生、このことを論文にも書かず、著書にもしていないので、通常の文献引用という形式を取ることができない。したがって、ここではこの先生の名前の公表を差し控える。ではなぜ書けるのか? それは筆者が直接にご当人から長時間、公表を前提としないテーマとして取材したからである。(ええ、もちろん「英語」で) だから文責は筆者にあると考えていただきたい。 書いた内容の校閲も受けていないだけでなく、内容がきわめて重大であること、さらに日本の識者、研究者もほとんど見過ごし、言及していない事項であるからだ。

まず、日本の大学がuniversityと称するなど、下世話でわかりやすい言い方をあえてすれば「ちゃんちゃらオカしい」のだという。universityは、universeの派生語であり、universeは「宇宙」「普遍」を意味する。だから、universityたるものは、「宇宙的に普遍」でなければならない ―― それなのに日本では大学の講義が日本語という「現地語」で行われているが、これはuniversityの定義に反する ―― こう言いたいのだ。

古来、学問、とりわけ科学は常に普遍をめざし、その時代のもっとも普遍的な言語で行われてきた。 ギリシャ時代では周辺国をふくめてギリシャ語、ローマが覇権をにぎってからはラテン語もしくはギリシャ語で、これはガリア、ゲルマニア、ブリタニアなどの蛮族が住む地域でも当然とされた。エジプトのアレキサンドリアには、これらの言語によるぼう大な文献を収蔵した大図書館が存在した。これが世界標準なのだ。ちなみに初期のキリスト教聖書は、ギリシャ語で書かれ、また宗教改革まではラテン語で書かれたテクストのみが存在し、「現地語」に翻訳することさえ許されなかった。

現在でもたとえば、スウェーデンの大学ではスウェーデン語で講義は行われない。英語である。その時代の覇権的な言語でおこなうべきなのだ。しかるに、日本では「現地語」たる日本語で講義が行われているが、これは歴史的・国際的な見地からして正しくない。かの先生は、「日本の大学は、大学ではない。専門学校だ」と言い切る。脳天に一撃、喰らったような衝撃だ。

東京の西の郊外に位置する国際的であることを標榜する(した?)、とある有名な大学では、あるとき、すべての講義は英語で行われるとされていた。

また、かつて、北に位置する、とある総合大学では「国際関係学類」というのが存在し、そこではすべてが「英語」かとうわさされたものだ。

さらにまた、私立大学の雄といわれた二大学のうちのある大学の科学系の某学部では、事務系もふくめすべての学内の会議は英語で行われると、所属の先生から聞いた。最近までに耳にしたところでは、そのいずれも今は実現されていない(らしい)。これは、いったい、何が起こったのか?

ちなみに、本論からは逸脱するがついでながら言及すると、「北に位置する、とある総合大学」では学食のカウンタでは、ああ、「現地語」たるこの国の標準語すら通じない。特異な抑揚のなまりの強い「方言」でないとダメなのだ。間違った窓口に食券を出すと、なんと、いきなり「その食券、◯△※*#!!」と叱られる。ああ、なんとまったく、わからない・・・・・・。いっそのこと、英語で叱ってくれた方が、よいのだが・・・・・・。

やや確認が難しいことであるが、ローマではカエサルが暗殺されたあと、反カエサル派が一掃され落ち着いてから「我こそはカエサルの血すじ」と称する人物が多数、ローマに現れた。彼らは「嫡子」たる自らの正統性を主張し、初代ローマ皇帝となるオクタビアヌス(アウグストゥス)を当惑させた。彼らの多くはカエサルが荒らしまわって征服したガリアの族長の娘などが母親である者たちだったらしいが、ローマに来て、当然のように「ラテン語」で主張した。これがあたりまえなのだ。ローマ市に来てガリアやゲルマニアの「現地語」で主張してもだれも聞いてくれはしない。

歴史にみる英語のお粗末

 

吉田松陰の黒船密航

吉田松陰は、幕末、アメリカの黒船艦隊が来航したとき、 青雲の志をもって旗艦のポーハタン号へ乗り込んだが、英語でプレゼンすることはできず、あっさりと追っ払われた。

日本では評価の高い松蔭だが、はたしてどうだろうか。

櫓(ろ)を固定してこぐためにフンドシをはずして縛り付け、見苦しい風体であったせいもあり、まったく相手にされなかった。惜しむらくは、滔々と英語でプレゼンして密航の目的を伝え、その抱負のほどを開陳することができなかったことだ。乗り込んだポーハタン号艦上でペリーを説得できていれば、事態はまったく違うように展開しただろう。松蔭が日本語で弟子たちに残した数々の名セリフを思えば、ああ、もし英語が堪能であったならば、ペリーの心を瞬時にとらえることができただろう。

実際には日本語(の読み書きのみ)がかろうじてできたポーハタン号の水兵と、なんと漢文で筆談できたのみだった。現代ですら、渡米すれば英語を話せない者に対するほとんど「敵対感」ともいえる差別ははなはだしい。黒船来航は1853年、奴隷解放をめぐっての「南北戦争」は1861--1865年である。当時、有色人種で英語が話せないとなれば、それへの偏見はなおさらであったろう。

後世、ぺりーは、松蔭の渡米は条約上、無理であり、不可能だったとしているが、それはそうではあるまい。幕府は黒船艦隊を「臨検」すらできなかったから、松蔭らをかくまうことなど、容易だったはずだ。幕府の役人が乗り込んできても、素知らぬ顔で追い返せば、それで済むことだったのだ。

欧米人一般について言うと、私事ではあるがこんなことがあった。パリへ仕事で行ったときホテル滞在が長びいたので、裏通りの安クリーニング屋らしいのを探して洗濯物を持ち込んだことがあった。フランス語はあまり自信がないので、店の初老のご婦人に、おそるおそる英語で話しかけた。その瞬間、その優しそうだったそのオバさんの表情は恐ろしいものに変容し、早口のフランス語で怒鳴り始めた。どうも、「英語など分かりはしない。アホか、オマエ、どっから来たんだ。ここはパリだ。さっさと出て行け!」と怒鳴っているらしい。情けないことに、すたこら退散するほかはなかった。現場での、とっさの、コミュニケーションとはこんなものなのだ。

さらに、フランス語圏の辺ぴな田舎の安レストランでは、メニューを見てもさっぱり注文ができず歯ぎしりしてやっとオーダーして食べていると、レジのところで店主の老夫妻がボソボソと「あいつ、どうも日本人らしいが、フランス語ができず、アホだ」と言っている。そこで食事を終えて支払いのとき、このままで済ますものかと気分を奮い立たせ、できるだけ正確なフランス語の発音で「Je suis content. ジェ スェイ コントン(料理はよかったよ!)」と一発かますと、それまで眼をを伏せてこちらを見ようともしなかった老店主が驚愕の表情で背筋をただし、「Merci beaucoup. メルスィ ボークー(ありがとうございます)」 と応え、メイド役のおばさんに目配せしている。言語が通じあうとその瞬間に対話の通路が開けるのだ。

そしてさらに、アルプスの渓谷のどん詰まりに位置し、数年間に日本人が一人来るか来ないかくらいであり、小さな教会がたった一つしかないド田舎の村(フランス語圏)で、旅程の調整のために滞在したことがあった。村で一軒しかないレストラン兼飲み屋に毎晩行っていると、イタリアから「出稼ぎ」に来た初老の男に出会った。結局、その男を相手にして飲むしかない。なんとかたどたどしいフランス語を駆使して話していいると、彼は得意気にふんぞり返って言う。
「オマエは、一体、何語ができるというのか。日本語と英語ができる? 何でぇ、それが自慢か? アホか、そんなものここでは何でもないよ。オレはイタリアのピサ、あのガリレオ様、オマエ知っているかガリレオ様? あの斜塔があるピサに住んでるただの労働者だ。毎年、出稼ぎに来る。その出稼労働者のオレが、ドイツ語、フランス語、イタリア語の三ヶ国語が全部できる。英語なんぞできなくても何の不自由もない。オマエのひどいデタラメのフランス語、聞くに堪えない下手くそさだ。フランス語が出来んヤツは犬と同じだ。何とかならんか、それを。使いモノにならん二ヶ国語しかできないくせしてぇ、えらそうにするな、この野郎!」
とからんでくる。私のメチャクチャなフランス語で、彼と毎晩のように話して、そのうち、お互いに何か意思疎通している気になってきたから不思議である。

話を元に戻し、松蔭をさらに語ろう。おそらくは、あれほど開明的な松蔭であれば、ポーハタン号を突破して渡航に成功していれば、数年後にはアメリカから様々なことを学んで帰国して明治以降の日本の重鎮として活躍し、その後、実際には軍国化していった日本のカジをしっかりと執って、明治の元勲のなかの元勲となり、たとえば、その後に続いた昭和の戦争・敗戦を防ぐことができたかも知れない。

実際にあったことは、ポーハタン号で門前払いされ、その後、あっさりと幕府へ自首して逮捕監禁されたすえ、刑死している。せめて、ポーハタン号以降は潜伏して英語をみがき、再度、密航をくわだているくらいの気概はなかったのものか。いさぎよく幕府に自首することにどれほどの意味があったのだろう。英語の重要さはしっかりと認識していたし、それを学ぶこともできる環境にいた松蔭だが、なぜかその方向へは向かわなかった。彼がそうしていれば、その後それに続く彼の門弟だった「志士」たちは、同様に英語達者となっていたかもしれない。

後世の日本の物書きは、しきりに松蔭のこの行動をほめるが、そうではあるまい。お粗末に過ぎると言えよう。まことに残念のきわみだ。

 

 夏目漱石のロンドン留学


夏目漱石がロンドンへ留学し、ふさぎこんでろくにやるべきことも行わず、うつ病のようになって帰国したことはよく知られている。これがなぜ起きたのか、どのような経緯があったのかを語る文献・研究は多くはなく、さらにこの行状・経緯を説明・批判する著書・意見は、(筆者の不勉強もあってか)寡聞にして聞かない。

どうも、ほとんど下宿から出かけず、 こもっていたらしい。食事に出かけてレストランで注文しても、まったく通じなかったらしい。この状況が、帝国大学出身の学士様のプライドをいたく傷つけ、得意のはずの英語がまったく通じないことがうつ病(のような症状)を発症させたと思われる。

これは、現代の「留学」もしくは「語学留学」している多くの日本から英語圏に移住した若者に共通する状況であろう。彼らの多くは、ネイティブの英語話者と意思疎通できず、日本人だけのグループで集っているらしい。これは日本で開催される国際学会などで、欧米から来る大学に在籍する研究者が一様に指摘する風情である。

漱石は、なぜ、ガリアから出てきて蛮族出身者としてローマで活躍した幾多の人物たちのようにふるまえなかっのだろう。ガリアからの留学生は、ローマにおいて彼らだけで徒党を組んでいたという文献は、寡聞にして知らない。

ところが、帰国して文士となると、『坊っちゃん』『我輩は猫』のように、饒舌で痛快な小説を書いている。さらに、これはどうしたことか。

日本人はそうしたものさ、という安易な結論に、筆者は与(くみ)することはできない。 あの「空海(弘法大師)」を見よ。中国に渡り、おそらくはその言語を完全に習得し、そして、その時代の最高の学府であった仏教寺院ですべての学問を修め、その師をして「後を継ぐことのできる唯一の弟子」とまで言わしめた人物だった。その師は帰国する空海に、泣いて別れを惜しんだと伝えられる。

空海がかくのごとくで、漱石がこのようなのはなぜかを、世の碩学の士よ、 筆者にわかるように説明してほしい。

日米開戦、最後の外交交渉


大東亜戦争(太平洋戦争)直前、日本の外交官、野村吉三郎大使来栖(くるす)三郎大使、アメリカ側からは、コーデル・ハル国務長官によって、ワシントンで最後の交渉が行われた。このとき、野村の提案により、外交交渉では通常は必ず行う通訳の介在を排除して交渉した。野村は、自分が英語に堪能であると自信があったとされているが、 後世、ハルは、野村の話す英語はほとんど理解できないほどのひどい程度のものだったと述懐している。

すでに日本の動きを諜報活動によりほとんどつかんでいた米側は、 日本側が何を言おうが、もはや冷淡に聞くばかりであり、野村はその英語のほどをもわきまえず、交渉を行っていたわけである。

この戦争は歴史の悲劇であったが、それ以前にこの状況はさまざまな問題を提起する。ここで、野村らが滔々(とうとう)と英語で日本の立場と主張を開陳し、ハルを圧倒していれば、歴史はかわっていたかもしれない。少なくとも、次なる交渉の機会をえることは可能だったろう。

この時期、日本はなんと、稀代の英語オンチを、国家百年の計をはかる決定的に重大なときに差し向けていた。まさにこの瞬間、後の三百万人を越える戦死者と焼土と化した国家の命運は、間違いなく野村らの「英語力」にかかっていたのである。

ああ、滂沱(ぼうだ)として、涙が頬をつたう。ほんとうに、情けない。