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2022/02/11

新幹線水没・原発放射能、そして学校火災

中学生のときの校舎火災

もう数十年も以前の古い話だ。学校祭の日だった。校舎は、L字形に展開する、二階建ての、嗚呼(ああ)、ため息が出るような、古色蒼然、古~い、オンボロの木造だ。

ふと、そのL字の内側から、向こう側のウイングの窓を見ると、窓から大量の煙が噴き出し、立ち上っている。状況は全くわからない。現実とは思えない不思議な光景に当惑する…こんなの見たことないぞ、と。

とにかく駆けつけなければ…と、行ってみる。と、なんと、床から立ち上った炎が垂直に天井まで届き、炎の先端は天井できれいに放射状に割れて、天井の大半をなめている。一見して、きわめて危険な大火災だ。周囲は無人で、何の音もしない。誰もいないし、放送での説明、避難指示などもない。ただ大きな火炎が垂直に火柱となって吹きあがっている。

夢の中の幻想を見るような、映画の一場面を見るような、遠い過去の思い出のような、なんとも言えない不思議な風景であり、見たこともない異様な美しさがあり、とても現実とは思えない。これがいったい何であるか、自分自身に納得させることができない、しばし見惚れるような、非現実的な、奇妙な現実だ。

が、ここまで見届けると、私は何らのためらいもなく、行動を開始した。事は急を要することはあまりにも明らかだった。一秒の無駄も、命とりだ。

同時、私は中学校の最上級生。意のごとく動かせる「手下」が何人もいて、平素からボス気取りだった。私の後を息を切らせて追ってきた、その手下どもに「どこからでいいから、消火器を、できるだけ沢山、集めて来い! 急げ、早くしろ!」と、命令。自分で引きずってきた一本は、すぐに出なくなる。火勢は、まったく止まない。「手下ども」は、「勝手にそんなことして消火器を開けたら、先生に叱られる。先生に聞いてからやっては ...」などと、まだ怪訝な風情だ。

どんな時にも、この種の間抜けな「慎重論」のようなことを、グダグダと言い出す輩がいるものである。ここで慎重になっていてどうなるというのだ! お利巧さんに、用はない。

そこで、一喝して「ダマレ!、うるさい! 馬鹿野郎!。 黙って言う通りにやれ! 俺が叱られてやる。いう通りにやらない奴はブッ飛ばすぞ!」と怒鳴る。それでも「探しに行ったけれど、見つからない」などと泣き言を言ってくる野郎がいる。いちいち、消火器が鎮座している場所を教えて「すぐに持って来なければ、ただではすまさないぞ、この野郎!」と脅迫し、慎重派をことごとく粉砕する。

やがて集ってきた消火器を次々と開栓。消火器20数本ほどでようやく制圧。鎮火。あたりは、消火器の残骸がゴロゴロして、なかなか壮観だ。

災害とはそもそも、こんなものだ。ここで、行動を一瞬でもためらっていれば、間違いなく校舎は全焼していた。とにかく、考えうる最善を尽くすのだ。これが男というものだ、と。

この間、たった一人の戦い、だった。何だか、うっとりするような話ではないか。男を挙げるのは、こんなときだ、と…、得意満面だった、が......。

ところがである。なんと、その後、あろうことか、驚くべきことに、私は、その功績を誉められるどころか、厳しく叱責されることとなった。全校生徒が避難指示に従い、整然と校庭に避難していたのに、たった一人だけ、参集しようとせず「馬鹿なお前は、またまた、勝手なことをしていた」ということで...。全員が避難して集合し、点呼して、アッ、あいつまた「どこかでフラフラしていた」トンデモない不埒(ふらち)なヤツだというわけだ。

まっ、このお叱りに対しては、腹のなかで「誰が火事を消したと思ってるんだ。やれたのなら、やって見せればよかっただろうに」と、胸をそらして昂然(こうぜん)として聞いていたが…。

ここで指摘したいのは、驚くべきことに、その時、教職員を含め、だれ一人、「消火しよう」と発想しなかったということだ。

また、そもそも学園祭の展示物のなかに、火を使い、それを見過ごしていたということの失態。そしてさらに、出火してからは「消火する」という発想に誰一人としてたどり着かなかったということだ。

想定外でした...本当に?

さて、ここからが本論。

本稿で指摘したいのは、あの水没した車両、水に浸かるまえに、現場の要員たちが高台に移動する発想がなぜできなかったのか ─ これだ(2019-10-13)。全車両が整然と水没している体たらくは、異様でさえある。そしてさらに驚愕するのは、「専門家」あるいは「関係者」諸氏がだれ一人、そのことを、事後であっても車両を退避させえたことを指摘すらせず、素知らぬ風情であることだ。損害額はいくらか知らぬが、甚大な金額となっていよう。

そしてまた、太平洋の海岸に「ツナミさん、どうぞ!」と言わんばかりに原発を並べておいて、津波が来襲したら、いったい、どうするつもりだったのだ。(福島第一原子力発電所事故、2011年3月11日)結局のところ、どうもできなかったわけであるが、こんなことでよいのか?

さらにまた、甲板上に爆弾・魚雷を搭載した航空機を大量に並べておいて、その瞬間に敵機が来て爆撃したら、どうするのか。(ミッドウェー海戦:昭和17年・1942年、6月5日~7日

想定外!ーこの何にでも効く特効薬、免罪符、言い訳? まさに「想定外」のオンパレードだ。

悲しいかな、日本の歴史にはこのような場面がいくつも見出だすことができる。損害額は、それぞれ、数千億円どころか、はるかな天文学的数字となるであろうが、このツケは、全て利用者、つまりは納税者としての国民に付け回しされるのである。

そして、これらの歴史的事件の関係者・当事者・専門家からは、今にいたるも、何らの説明や釈明、言い訳や、泣き言すらもない。

嗚呼(ああ)!

 

2017/08/10

マッカーサーの見たレイテ海戦

ダグラス・マッカーサーが、太平洋戦争(大東亜戦争)において敗北寸前となって追いつめられたことは、二度ある。

初期の「フィリピン・バターン半島」からの脱出のとき、それと、本稿で語る大戦末期の掉尾(とうび)をかざるにふさわしい「レイテ海戦」だ。

レイテ島に上陸するマッカーサー 1944/10/20


何を今さらこの歴史を語るのか。いささか「昔を今になすよしもがな...」の詠嘆と言えなくもない。

しかし問題は、たんなる感傷や感慨にふけるだけではあまりにも大きすぎるし、またそう単純ではない。なぜなら、この辺りから、その後のマッカーサーの日本に対する「畏れ(おそれ)」とも「リスペクト」ともとれる想念が、通奏低音のように流れ始める。あの尊大にして傲慢きわまり、鼻持ちならないマッカーサーにして、かくのごとくであったということである。

そして戦後すぐ会見のために来訪した昭和天皇の想定外の発言に、マッカーサーは完全に圧倒される。

したがって、大戦末期の「レイテ海戦」においてのさまざまなでき事は、マッカーサーの戦後における対日政策や、大戦終了後の数々の発言のなかに大きく投影しているといっても、過言ではない。だとすると、さらに現代の日本のあり方にも大きく影響したと断言できよう。

敵を誉めそやしておいて、その敵を撃破した自分はもっと偉いというよく使われる姑息な自己顕示欲の手法もあるが、それをマッカーサーがやるには、この海戦は歴史的事実としてあまりに大き過ぎる。

この視点に立てば、「レイテ海戦」は日本側が敗北はしたものの、その戦争目的を達成したともいえる。そして、人類史上最大の海空戦として、民族の神話として、ながく語り伝えられるであろう。

マッカーサー側はとんでもないお粗末な指揮系統


レイテ海戦における日本の主敵は、
  • 第7艦隊(指揮官キンケード、レイテ島タクロバンのマッカーサー指揮下)
  • 第3艦隊(指揮官ハルゼー、ハワイのニミッツ指揮下)
だった。ところがあろうことか、この両部隊の統一指揮は設定がなく、このことが米軍側に決定的な事態をもたらす。マッカーサーは憤怒をこめて述懐する:
その後に行われた戦闘は、指揮の統一を欠くことがいかに危険であり、重要な作戦で最終的な責任を負っている司令官(マッカーサー自身を指す)が作戦に参加している全部隊を指揮できない場合、いかに誤解が起こりやすいかということを、現実にしめしてくれることとなった。
 人間のやることは、すべて錯誤の連続である。この場合、日米双方に重大な「錯誤」が起きた。

ありえないことが双方に連続して起きる


鉄壁の布陣でレイテ湾に上陸した部隊を守っていたはずの米側艦隊は、それぞれ、日本側の巧緻をきわめた作戦にひっかかって、本来の持ち場を離れ、レイテ湾岸に上陸したマッカーサーの指揮する部隊の守備はガラ空きで、部隊は裸同然となる。日本側には、まさに千載一遇の好機が訪れようとしていた。

日本艦隊は艱難辛苦(かんなんしんく)のすえ南下し、ああ、ついに目的の、レイテ島の東に位置するレイテ湾直前まで殺到した。そして、湾岸に上陸したばかりのマッカーサー軍はなんの防備も持たず、あわや、あの「大和」の史上最大の主砲をはじめ多数の日本艦隊の砲撃のもとに壊滅するばかりの最大の危機がせまった。

ところがそのとき、日本艦隊は目前にせまった攻撃を突如として放棄し、反転して北上を開始した。あの有名な『栗田艦隊のナゾの反転』だ。

こうして日本側がこの戦いで勝利しうる機会は永久に失われ、マッカーサーは、からくもすんでのところで虎口を脱した。

このときのマッカーサーの胸中に去来するものは何であったか。史家はそれには言及することなく、またマッカーサー自身も何らの述懐を残していない。

しかし、背後からの決定的な致命傷となる一撃を、みずからの力量ではなく、たんなる偶然によってかろうじてまぬがれることができたという一事は、マッカーサーの燦然たる軍歴を誇る尊大な自尊心に深い傷跡を残すと同時に、日本恐るべしとの畏敬ともいえる想念を深く胸中に抱かせるにいたったに違いない。

なぜなら、そのときのマッカーサーは、戦争初期のバターン半島のときとは違い、万全の準備のもとに大軍を率い、完全な勝利の確信に満ちて戦いに臨んでいたからである。

さらに、マッカーサーの目前まで迫った日本艦隊は、途上や帰路において多大の損害を受けはしたが完全に撃破されることなく日本本土に多数の艦艇を持ち帰ることができた。

マッカーサーは、自らの盤石の布陣にもかかわらず敵に追いつめられ、さらにその敵を取り逃がす結果となったわけである。

そしてこれが、マッカーサーの後の対日政策に大きく投影したことと考えられる。

そして神話たりうる物語が残った


フィリピンおよびその周辺では、多くの海空戦や陸戦が行われた。戦後、フィリピンのミンドロ島からかろうじて生還して作家となった大岡昇平は、ぼう大な著書『レイテ戦記』にその全貌を書き記し、『野火』においてこの戦域の陸戦で倒れた多くの日本兵がたどったであろう悲惨な運命の物語を書いた。

個々の海戦のなかにはこんな戦いもあった。駆逐艦「初月(はつづき)」の最期だ。包囲されて傷つき退避する味方の小艦隊を助けるため、「初月」はただ一艦、独断で反転し、追ってきた敵艦隊に向かう。激しい砲雷撃戦のすえ撃沈され、生存者は皆無だった。包囲した米艦隊は、そのあまりに豪胆なふるまいに「初月」を駆逐艦とは考えずに重巡洋艦と誤認し、艦隊ごとほんろうされて足止めをくらう。その虚をついて味方艦隊は北上して退避に成功する。

平家物語や、楠木正成の湊川の戦いの絵巻物を見ているかのような、みごとなそして悲しい戦いぶりだった。

まさに、民族の神話を書き残してくれたと前述したゆえんである。われわれは、このような戦いをおこなった者たちの子孫であることを誇りとしなければならない。