2017/07/03

日本のメディア-- 先進国で最低、トホホの報道機関の実態

これでいったい『自由主義国家』なのか日本は


新聞、テレビ、その他のメディアで毎日、報道されていることがいったい、どこまで本当なのだろうかと考えたことはないだろうか。そう、ここで書くことをみれば、その実態たるや、ア然とする事実があまりの多いことに気づくはず。

分析してみれば、日本のランクは、トホホの72位 


報道の自由度ランキング       
(↑ リンクあり、クリックを!)
http://ecodb.net/ranking/pfi.html
に掲載のデータによると、現在、日本は、なんと、世界で、72位。

このランキング、
報道の自由に対する侵害について、法的支配やインターネット検閲、ジャーナリストへの暴力などの項目で調査されており、侵害度が大きいほど指数は高くなる。
という方法で査定されているそうである。

韓国(63位)日本の9位上方に、韓国が63位に … ウム、惨敗だ。思わず切歯扼腕(せっしやくわん)。
中国(176位)、共産国家なのだから仕方ないか。
北朝鮮(180位)、は資料中の最下位。これもお国柄だから。
アメリカ(43位)
イギリス(40位)
ドイツ(16位) ―― さすが。
カナダ(22位)、ちょっと、意外。
ロシア(168位)、やっぱり...。

1ケタ台をしめるのは、北欧などヨーロッパの国々。さらには、コスタリカ、ジャマイカも10位以内に。日本の順位の前後には、何やら危なげな国々が並ぶ(失礼をお詫びするが...)。

日本の順位、なっとくできる? 


この日本の順位 ―― 読者諸氏におかれては、到底、納得できるものではないはず。

この状況は、一言でいえば、日本は『報道管制』の下(もと)にあるということである。というと、多くの人々は「ありえない!」と考えるであろう。しかし、データにもとづいて分析した確たる真実なのである。

日本の食べ物が美味しい...世界から訪ねる人々が多くなった...などと、浮かれている場合ではない。

これはつまり、日本人は、日本のなにものかに手繰られている、ということである。 日本は
不自由主義国家
であるということである。

しかし、どうして、なぜ?  その『なにもの』とは...?

先の大戦のときの『大本営発表』という報道のやり方を、今だにやっているということなのか? 
あるいは、他にも何かあるのか?

さあ、いよいよ核心に迫ってきた。
次稿で詳しく書こう。なんだか、新聞代、返せ!と言いたくなる。

2017/06/24

平日の朝、若者の長蛇の列 ― こんなことが日常になった日本はどうなる


今や海外でも評判となっている、とある繁華街のいっかくで、毎朝、パチンコ屋へ並ぶ若者の行列がある。その数たるや、300人くらいから数千人。これが連日、しかも平日の朝の光景。

これを見て、とても冷静ではいられない戦慄が走る。日本は、ああ、いったい、これからどうなるのだ。

 

日本はこんな国だった


ずいぶん昔の子供のころで、いつのことさえ、今となっては定かではない。

食べ残した、ほんの僅かな米粒が残るメシ茶碗を台所の流し台にあるタライに放り込んだ瞬間、いつの間にか背後に立っていた父に、突然、なぐられて視野にはホシが舞い散った。

見上げると、父が目を逆立て、大声で怒鳴る ――
「これだけのコメをカユにすれば、何人の人間がどれだけ生きていられるか、知っているのかぁ! これを食べられなくて、何人が死んだのか、わかっているのかぁ!...」
泣きじゃくりながら、タライの底のドロドロになったご飯粒をかき集め、口にねじ込んだことが、今も原体験としてよみがえる。

街に出れば、繁華街のちょっと外れあたりには、必ずどの町にも、異様な集団がいた ―― 傷痍軍人(しょういぐんじん)である。星の徽章がついた「戦闘帽」をかぶり、白い着物のような傷病服?を着て、五体がそろっている人物はひとりもない ―― 片手、両足がない、両手両足ともなく台車に座したままでそれを片足の松葉ヅエの「戦友」が押し、アコーディオンを鳴らしている...。東京では、新宿のガード下あたりには、必ず、見受けられたものである。

人々のなかには、目をそむけて足早に立ち去ることはあっても、決して彼らを追い立てたり、からかったり嘲笑する者はいなかった。黙したまま、彼らが差し出す粗末なお手製の募金袋のなかに、そっとお金を入れるヒトもいる。

いつもは、見ないふりをして足早に通り過ぎていた亡父は、あるとき、たった一度だけ、そのような集団を見つけると近づいて行って ――
「戦地はどこか? どこで負傷したか?」
と、いつもは決して口にしない硬い口調で問いかけたことがあった。そのような質問は受けることがないのか、数人の傷痍軍人が無言のままででいると、亡父は、
「自分は北支である。大尉で終戦だ」
と言った瞬間、彼らは一斉に背筋をのばして敬礼(もちろん可能な人だけ)。目が合った人物が
「南方であります...」
 と返答。しばし、無言のまま見つめ合っている...。しばらくして亡父は
「ご苦労であった」
と返答してさらに何事かを話し合っている。しばらくの後、事情が理解できずにぼう然とする私の手を引いてその場を離れた。

人々は、すでに多様な価値観のなかにさまざまな方向に生き始めており、すでに『過去』となった時代の考え方を振り返る余裕はなかった。しかし、かつて、ある時代が掲げた理念のために懸命に生き、あるいは殉じ、そして、かろうじて傷ついて生還した者たちへの尊敬・共感の念、リスペクトやいたわりの気持ちは、主義主張の違いがあっても、一様に持っていた。

さざめくように楽しく談笑していても、彼らの前を通り過ぎるときは、一様に表情を固くして口を閉ざし、下を向いていたものだ。誰しも胸が痛んだのだ。

そして、 亡父がなぜ
「いつもは見ないふりをして足早に通り過ぎていた」
のかが、自分自身がこの年齢に達してようやく理解できる。彼は、つらさのあまり、直視することができなかったのだ。あの痛々しい人々の存在は、かつて、自分の身代わりとなってたおれ、指だけを遺骨として切り取って戦場にそのままして残してきたあの連中 ―― そのものだったのだ。

多くの人々がそうだっただろう。

ああ、日本は、かつて、ほんの少し前まで、こんな国だったのだ。

それを、どこで、どのように踏み外して、こうなったのか ―― 数百、いや数千の若者が平日の朝から、労働しようともせずに、連日、パチンコ屋の開店に並ぶとは......。

これでも『カジノ』を強行しようとするのか


今や世界からさまざまな若者が集う、ここは若者に大人気の地域。

その一郭の地下に、ここで論ずる大規模『ゲームセンター』がある。

これ、年配者には『パチンコ屋』と言ったほうがわかりやすいだろう、そういう施設。ここへ、連日、平日の午前の早い時間帯から(土日・休日ではなく!)、建物の周囲の歩道、車道を埋めつくすかのごとく、入場のための、大規模な行列ができている。

連日の朝から大行列 ― 300から500人、ときには3千人


その数、ごく通常的に、300人から500人。

そのほとんどは、その風貌から見て20歳代であろうと考えられ、ごくわずかに30、40、50歳代、それ以上、が見受けられる。

くり返すが、これは『平日』の朝である。しかも毎日。

では、なぜ、人数がこんなにもよくわかるのか ―― それは、この遊興施設の係員が、ご丁寧にも、一人づつに整理券を配布し、(混乱を避けるため?)100人ごとにプラカードを掲げ、拡声器でさまざまな注意を与えている。その末尾を見れば、総数は、一目瞭然である。

下記の記述に関連するが、立派な「徒党」集団である。

朝であるから、当然、さまざまな人々が早足で、なんと!その整然と(!)並ぶ隊列のわきを行き来し、車両の往来も少なくはない。

連日のことなので、誰も立ち止まって、この異様な『隊列』を注視するようなことはない ―― いわば、毎日の「お馴染みの」当たり前の光景なのだ。



これぞ、亡国のきざし!


具体的には、このような法規に違反しているであろう。
  • 不法占拠 ―― 公道たる、歩道、車道を無届で、確実に、連日、不法に集団で徒党を組織して占拠し、往来を妨げている。さらに、この「集会」は「公安委員会」に無届であろう。さすれば、違法。
  • 凶器準備集合罪 ―― 彼らは一様に、凶器たりうる機材を携行している。それは『スマホ』。エッと思われるかも知れないが、その昔、小さな木製の棒キレを持っていただけで、時勢を憂うる多くの学生が逮捕・拘禁・起訴されたのだ。スマホは硬度が高く、当たれば痛い。また、投げて落下すれば爆発しうる。充分に凶器たりえよう。
  • 憲法違反 ――  日本国憲法第27条第1項 勤労の義務がある。これに抵触。
やや牽強付会(けんきょうふかい)、つまり、こじつけのきらいがなくはないが、筆者は真剣である。なんとか、止めさせたいのだ。

真面目な生業について、働いてほしいのだ。この狂態を前にして、平然として見ていられるか。


2016/10/03

英語!抱腹絶倒、滂沱(ぼうだ)落涙の英語オンチ物語

われわれ日本人は、なぜ英語ができない


かなり以前のことである。ある日本のメディアの女性キャスターがブータンの奥地の村落を訪ね、山村のごく普通の民家に宿営するというドキュメンタリー仕立ての民報のテレビ番組があった。そこで、おそらく小学校3年生くらいと思われる現地の女の子と同宿して、現地の暮らしを紹介するという筋書きだった。峻険な山並みと谷筋が交錯し、家々をつなぐのはヒトがかろうじて歩いていけるだけのか細い道だけだ。日本でいえば、北アルプスの山小屋を訪ねるというような風景だ。

ところが、ほんの少し進行したところで、がく然とする事実に直面することになる。なんと、女性キャスターが手繰るたどたどしい英語に対し、その女の子は、驚くべきことに流ちょうな英語でよどみなく話しかけたのだ。話すことに何の不自由さも感じさせない。おそらくは日本のそこそこの大学を卒業して放送の業務についたのであろうキャスター氏は、ああ、まったく歯がたたない!

そして、見ていてまことに不愉快なのは、その女性キャスターがあくまで相手の子どもを、僻地に住む未開で素朴な山村の住民と決めつけて、その子がかなりのスピードで話しかける英語にまったく向かい合う姿勢が見られず、取り合わない(取り合えない)ことだった。まるで「こんなことは、ありえない」と言わんばかり・・・・・・。

おそらくは、まったくの想定外だったのだろう。キャスター氏の望んでいたのは、まさに「世界のはて」の、文化果(は)つる未開な集落での、いわゆる『原住民』的な対象を取材するという、上から目線の対応だったのだろう。とうの小学3年生嬢は「何で応えてくれないのだろう」と言わんばかりに、キョトンと当惑している。

はっきり言えることは、あの女の子はその翌日にニューヨークに引っ越しても話すことに何の問題もないが、 あの女性キャスター氏はできないということである。こんなことがなぜ起きるのか。

その昔、ブータンでは多数の現地語が存在していた。つまり、となり村へ行くために谷筋一つ越えれば、まったく言語が通じないという有り様だったのだ。この地方を植民地として進駐した宗主国の英国は効率的な支配を確立するためEnglishを公用語とし、学校教育も英語で行うこととした。つまり、あの小さなかわいい女の子の通う山の小学校では、あろうことか、すべての授業が英語で行われていたのだ。

そして、なんと日本では現代の大学においてさえ、ああ、今だに「現地語」で講義が行われているというのに...。

日本の大学は、はたしてUniversityなのか


この項目で述べることは、そのほとんどは、スイス在住のある世界的に著名な科学史研究者の主張・学説である。しかしながら、この先生、このことを論文にも書かず、著書にもしていないので、通常の文献引用という形式を取ることができない。したがって、ここではこの先生の名前の公表を差し控える。ではなぜ書けるのか? それは筆者が直接にご当人から長時間、公表を前提としないテーマとして取材したからである。(ええ、もちろん「英語」で) だから文責は筆者にあると考えていただきたい。 書いた内容の校閲も受けていないだけでなく、内容がきわめて重大であること、さらに日本の識者、研究者もほとんど見過ごし、言及していない事項であるからだ。

まず、日本の大学がuniversityと称するなど、下世話でわかりやすい言い方をあえてすれば「ちゃんちゃらオカしい」のだという。universityは、universeの派生語であり、universeは「宇宙」「普遍」を意味する。だから、universityたるものは、「宇宙的に普遍」でなければならない ―― それなのに日本では大学の講義が日本語という「現地語」で行われているが、これはuniversityの定義に反する ―― こう言いたいのだ。

古来、学問、とりわけ科学は常に普遍をめざし、その時代のもっとも普遍的な言語で行われてきた。 ギリシャ時代では周辺国をふくめてギリシャ語、ローマが覇権をにぎってからはラテン語もしくはギリシャ語で、これはガリア、ゲルマニア、ブリタニアなどの蛮族が住む地域でも当然とされた。エジプトのアレキサンドリアには、これらの言語によるぼう大な文献を収蔵した大図書館が存在した。これが世界標準なのだ。ちなみに初期のキリスト教聖書は、ギリシャ語で書かれ、また宗教改革まではラテン語で書かれたテクストのみが存在し、「現地語」に翻訳することさえ許されなかった。

現在でもたとえば、スウェーデンの大学ではスウェーデン語で講義は行われない。英語である。その時代の覇権的な言語でおこなうべきなのだ。しかるに、日本では「現地語」たる日本語で講義が行われているが、これは歴史的・国際的な見地からして正しくない。かの先生は、「日本の大学は、大学ではない。専門学校だ」と言い切る。脳天に一撃、喰らったような衝撃だ。

東京の西の郊外に位置する国際的であることを標榜する(した?)、とある有名な大学では、あるとき、すべての講義は英語で行われるとされていた。

また、かつて、北に位置する、とある総合大学では「国際関係学類」というのが存在し、そこではすべてが「英語」かとうわさされたものだ。

さらにまた、私立大学の雄といわれた二大学のうちのある大学の科学系の某学部では、事務系もふくめすべての学内の会議は英語で行われると、所属の先生から聞いた。最近までに耳にしたところでは、そのいずれも今は実現されていない(らしい)。これは、いったい、何が起こったのか?

ちなみに、本論からは逸脱するがついでながら言及すると、「北に位置する、とある総合大学」では学食のカウンタでは、ああ、「現地語」たるこの国の標準語すら通じない。特異な抑揚のなまりの強い「方言」でないとダメなのだ。間違った窓口に食券を出すと、なんと、いきなり「その食券、◯△※*#!!」と叱られる。ああ、なんとまったく、わからない・・・・・・。いっそのこと、英語で叱ってくれた方が、よいのだが・・・・・・。

やや確認が難しいことであるが、ローマではカエサルが暗殺されたあと、反カエサル派が一掃され落ち着いてから「我こそはカエサルの血すじ」と称する人物が多数、ローマに現れた。彼らは「嫡子」たる自らの正統性を主張し、初代ローマ皇帝となるオクタビアヌス(アウグストゥス)を当惑させた。彼らの多くはカエサルが荒らしまわって征服したガリアの族長の娘などが母親である者たちだったらしいが、ローマに来て、当然のように「ラテン語」で主張した。これがあたりまえなのだ。ローマ市に来てガリアやゲルマニアの「現地語」で主張してもだれも聞いてくれはしない。

歴史にみる英語のお粗末

 

吉田松陰の黒船密航

吉田松陰は、幕末、アメリカの黒船艦隊が来航したとき、 青雲の志をもって旗艦のポーハタン号へ乗り込んだが、英語でプレゼンすることはできず、あっさりと追っ払われた。

日本では評価の高い松蔭だが、はたしてどうだろうか。

櫓(ろ)を固定してこぐためにフンドシをはずして縛り付け、見苦しい風体であったせいもあり、まったく相手にされなかった。惜しむらくは、滔々と英語でプレゼンして密航の目的を伝え、その抱負のほどを開陳することができなかったことだ。乗り込んだポーハタン号艦上でペリーを説得できていれば、事態はまったく違うように展開しただろう。松蔭が日本語で弟子たちに残した数々の名セリフを思えば、ああ、もし英語が堪能であったならば、ペリーの心を瞬時にとらえることができただろう。

実際には日本語(の読み書きのみ)がかろうじてできたポーハタン号の水兵と、なんと漢文で筆談できたのみだった。現代ですら、渡米すれば英語を話せない者に対するほとんど「敵対感」ともいえる差別ははなはだしい。黒船来航は1853年、奴隷解放をめぐっての「南北戦争」は1861--1865年である。当時、有色人種で英語が話せないとなれば、それへの偏見はなおさらであったろう。

後世、ぺりーは、松蔭の渡米は条約上、無理であり、不可能だったとしているが、それはそうではあるまい。幕府は黒船艦隊を「臨検」すらできなかったから、松蔭らをかくまうことなど、容易だったはずだ。幕府の役人が乗り込んできても、素知らぬ顔で追い返せば、それで済むことだったのだ。

欧米人一般について言うと、私事ではあるがこんなことがあった。パリへ仕事で行ったときホテル滞在が長びいたので、裏通りの安クリーニング屋らしいのを探して洗濯物を持ち込んだことがあった。フランス語はあまり自信がないので、店の初老のご婦人に、おそるおそる英語で話しかけた。その瞬間、その優しそうだったそのオバさんの表情は恐ろしいものに変容し、早口のフランス語で怒鳴り始めた。どうも、「英語など分かりはしない。アホか、オマエ、どっから来たんだ。ここはパリだ。さっさと出て行け!」と怒鳴っているらしい。情けないことに、すたこら退散するほかはなかった。現場での、とっさの、コミュニケーションとはこんなものなのだ。

さらに、フランス語圏の辺ぴな田舎の安レストランでは、メニューを見てもさっぱり注文ができず歯ぎしりしてやっとオーダーして食べていると、レジのところで店主の老夫妻がボソボソと「あいつ、どうも日本人らしいが、フランス語ができず、アホだ」と言っている。そこで食事を終えて支払いのとき、このままで済ますものかと気分を奮い立たせ、できるだけ正確なフランス語の発音で「Je suis content. ジェ スェイ コントン(料理はよかったよ!)」と一発かますと、それまで眼をを伏せてこちらを見ようともしなかった老店主が驚愕の表情で背筋をただし、「Merci beaucoup. メルスィ ボークー(ありがとうございます)」 と応え、メイド役のおばさんに目配せしている。言語が通じあうとその瞬間に対話の通路が開けるのだ。

そしてさらに、アルプスの渓谷のどん詰まりに位置し、数年間に日本人が一人来るか来ないかくらいであり、小さな教会がたった一つしかないド田舎の村(フランス語圏)で、旅程の調整のために滞在したことがあった。村で一軒しかないレストラン兼飲み屋に毎晩行っていると、イタリアから「出稼ぎ」に来た初老の男に出会った。結局、その男を相手にして飲むしかない。なんとかたどたどしいフランス語を駆使して話していいると、彼は得意気にふんぞり返って言う。
「オマエは、一体、何語ができるというのか。日本語と英語ができる? 何でぇ、それが自慢か? アホか、そんなものここでは何でもないよ。オレはイタリアのピサ、あのガリレオ様、オマエ知っているかガリレオ様? あの斜塔があるピサに住んでるただの労働者だ。毎年、出稼ぎに来る。その出稼労働者のオレが、ドイツ語、フランス語、イタリア語の三ヶ国語が全部できる。英語なんぞできなくても何の不自由もない。オマエのひどいデタラメのフランス語、聞くに堪えない下手くそさだ。フランス語が出来んヤツは犬と同じだ。何とかならんか、それを。使いモノにならん二ヶ国語しかできないくせしてぇ、えらそうにするな、この野郎!」
とからんでくる。私のメチャクチャなフランス語で、彼と毎晩のように話して、そのうち、お互いに何か意思疎通している気になってきたから不思議である。

話を元に戻し、松蔭をさらに語ろう。おそらくは、あれほど開明的な松蔭であれば、ポーハタン号を突破して渡航に成功していれば、数年後にはアメリカから様々なことを学んで帰国して明治以降の日本の重鎮として活躍し、その後、実際には軍国化していった日本のカジをしっかりと執って、明治の元勲のなかの元勲となり、たとえば、その後に続いた昭和の戦争・敗戦を防ぐことができたかも知れない。

実際にあったことは、ポーハタン号で門前払いされ、その後、あっさりと幕府へ自首して逮捕監禁されたすえ、刑死している。せめて、ポーハタン号以降は潜伏して英語をみがき、再度、密航をくわだているくらいの気概はなかったのものか。いさぎよく幕府に自首することにどれほどの意味があったのだろう。英語の重要さはしっかりと認識していたし、それを学ぶこともできる環境にいた松蔭だが、なぜかその方向へは向かわなかった。彼がそうしていれば、その後それに続く彼の門弟だった「志士」たちは、同様に英語達者となっていたかもしれない。

後世の日本の物書きは、しきりに松蔭のこの行動をほめるが、そうではあるまい。お粗末に過ぎると言えよう。まことに残念のきわみだ。

 

 夏目漱石のロンドン留学


夏目漱石がロンドンへ留学し、ふさぎこんでろくにやるべきことも行わず、うつ病のようになって帰国したことはよく知られている。これがなぜ起きたのか、どのような経緯があったのかを語る文献・研究は多くはなく、さらにこの行状・経緯を説明・批判する著書・意見は、(筆者の不勉強もあってか)寡聞にして聞かない。

どうも、ほとんど下宿から出かけず、 こもっていたらしい。食事に出かけてレストランで注文しても、まったく通じなかったらしい。この状況が、帝国大学出身の学士様のプライドをいたく傷つけ、得意のはずの英語がまったく通じないことがうつ病(のような症状)を発症させたと思われる。

これは、現代の「留学」もしくは「語学留学」している多くの日本から英語圏に移住した若者に共通する状況であろう。彼らの多くは、ネイティブの英語話者と意思疎通できず、日本人だけのグループで集っているらしい。これは日本で開催される国際学会などで、欧米から来る大学に在籍する研究者が一様に指摘する風情である。

漱石は、なぜ、ガリアから出てきて蛮族出身者としてローマで活躍した幾多の人物たちのようにふるまえなかっのだろう。ガリアからの留学生は、ローマにおいて彼らだけで徒党を組んでいたという文献は、寡聞にして知らない。

ところが、帰国して文士となると、『坊っちゃん』『我輩は猫』のように、饒舌で痛快な小説を書いている。さらに、これはどうしたことか。

日本人はそうしたものさ、という安易な結論に、筆者は与(くみ)することはできない。 あの「空海(弘法大師)」を見よ。中国に渡り、おそらくはその言語を完全に習得し、そして、その時代の最高の学府であった仏教寺院ですべての学問を修め、その師をして「後を継ぐことのできる唯一の弟子」とまで言わしめた人物だった。その師は帰国する空海に、泣いて別れを惜しんだと伝えられる。

空海がかくのごとくで、漱石がこのようなのはなぜかを、世の碩学の士よ、 筆者にわかるように説明してほしい。

日米開戦、最後の外交交渉


大東亜戦争(太平洋戦争)直前、日本の外交官、野村吉三郎大使来栖(くるす)三郎大使、アメリカ側からは、コーデル・ハル国務長官によって、ワシントンで最後の交渉が行われた。このとき、野村の提案により、外交交渉では通常は必ず行う通訳の介在を排除して交渉した。野村は、自分が英語に堪能であると自信があったとされているが、 後世、ハルは、野村の話す英語はほとんど理解できないほどのひどい程度のものだったと述懐している。

すでに日本の動きを諜報活動によりほとんどつかんでいた米側は、 日本側が何を言おうが、もはや冷淡に聞くばかりであり、野村はその英語のほどをもわきまえず、交渉を行っていたわけである。

この戦争は歴史の悲劇であったが、それ以前にこの状況はさまざまな問題を提起する。ここで、野村らが滔々(とうとう)と英語で日本の立場と主張を開陳し、ハルを圧倒していれば、歴史はかわっていたかもしれない。少なくとも、次なる交渉の機会をえることは可能だったろう。

この時期、日本はなんと、稀代の英語オンチを、国家百年の計をはかる決定的に重大なときに差し向けていた。まさにこの瞬間、後の三百万人を越える戦死者と焼土と化した国家の命運は、間違いなく野村らの「英語力」にかかっていたのである。

ああ、滂沱(ぼうだ)として、涙が頬をつたう。ほんとうに、情けない。





2014/04/05

靖国! ── [1] 日本における信教の自由とは


戦犯の合祀 ── これは、昭和天皇ですら、その後の参拝を行わないことで反対の意思表示を行うほどの暴挙だった。

昭和天皇は、かつては大日本帝国陸海軍の頂点に位置するとされた存在だった。また開戦以来、初めての玉砕がアッツ島で起きたとき、すでに無線機と暗号書を破壊して通信の手段を持たず全滅したとされた現地部隊に対して、
最後まで良くやった。このことをアッツ島守備隊に伝えよ。
と命令された。「もう打電しても無駄だ」という参謀総長に対し、
それでも良いから電波を出してやれ。
と発言されたほどの熱血と温情の天皇であった。

この天皇にして、戦犯の合祀を容認はされなかったのだ。

海外から見れば、この「合祀」さらに「首相の参拝」によって、「日本は第二次大戦における戦争犯罪者を『顕彰』している」という見解を持つのは当然であろう。

今や、世界の「宗教」でかくも政治的な存在は他に類例を見ない。海外の政治勢力は、思う存分にこの状況を政治カードとして利用し、日本はそれにより国益を著しく損じている。しかも、発端は、国策の決定でもなければ、日本国民の民意にも基づいていないのである。

東條首相は「英霊に申し訳がたたない」という超論理的な論拠で、中国大陸での事変(実質的には戦争)を収拾しようとはせず、拡大の方向に向かった。この珍妙な論理が、やがて国を滅ぼすに至ったことを忘れてはならない。

きけわだつみのこえ」におけるクリスチャン


戦没学生遺稿集である「きけわだつみのこえ」や「はるかなる山河に」「雲ながるる果てに」に出てくる戦没学生のなかには、少なからず、キリスト教徒がいる。

その書簡の末尾にふつうであれば「敬具」と書くところを、キリスト者らしく「主にありて」と記してあり、他の遺稿と同様に涙なくしては読めない。

「主にありて」という聞きなれない表現は、キリスト教の根幹を作ったといわれる聖パウロが信徒への書簡で好んで使った言い方で、「主(イエス・キリスト)のなかにあって、生きている者」という意味である。これらの戦没者は、キリストのなかに自分は生かされていると信じていたのだ。

そして、これら「キリスト者」の靖国への合祀は、キリスト教の教義に照らせば、戦没者本人・遺族にとってたえ難いものであり、実際に戦後になって何度も合祀取り下げの要請が出され、拒否されている。これは、一体、何なのであろうか?

2014/04/03

日本で原発は是か非か ── [2] 南海トラフ地震で原発はどうなる

南海トラフ地震のシュミレーション


2014年3月11日、東北の地震・津波の慰霊の日、まだ悲しみが冷めやらないなか、各メディアは近い将来に予定される「南海トラフ地震」のシュミュレーションを 放映していた。

最大、34メートルの津波が押し寄せるであろうという想定でのさまざまなシュミュレーションは、息をのむリアルさで見る者を圧倒した。





そのとき原発はどうなる

このシュミレーションをなぜ公開しない 

しかし、いまかいまかと待っていながら、最後までどのメディアも放映しなかった(すべてを検証したわけではないでので、おそらく…)のは、そのとき、地震による激震とそれに続く巨大津波によって、原発がどのように破壊され、原子炉がどのように壊滅し、あるいは爆発し、そののち放射能がどのように拡散し、その後、さまざまな生命たちがどのように息絶えていくか ── これだった。

大地震、そしてそれに続く巨大津波は、たいへんな恐怖である。その惨禍は言語に絶するものとなろう。しかしこれらは一過性のものであり、その瞬間をかろうじて生き延びれば、何とか助かるということは想定できる。

しかし、高濃度の放射能が降ってくることに対しては、もう、われわれはなすすべがない。そして、その後、長期間、途方もない広範囲にわたり、死の地帯となるのである。

原発による発電がなければ産業が、日本経済が成り立たない ── そうであろう。

原発で発電しなければ二酸化炭素排出の問題に直面する ── そうであろう。

しかし、ここで論じている問題は、だれがどのように説明し、納得させてくれるのであろうか。

いわゆる「専門家」による驚愕のコメント

かつて、米国スリーマイル島の原発事故があってまだ年月が経過していないころ、この国でもっとも権威があるという大学の工学部で、この分野を直接に研究する学科の複数の研究者(教授)たち、この人たちをおいてほかに「専門家」というべき人材がいないという人物たちが、ふとあるときに述懐していた言い回しを、いまさらのように思い出す。

スリーマイル島の事故は不幸な事故であるが、技術的に、今の(つまり、当時の)日本よりはるかに劣っているから起きた事故だ。日本の原子力工学は、今や世界最高のレベルで、あのようなお粗末な事故は、絶対に起きない。この分野においては、日本は世界で独走態勢になっているよ...。
これからは日本が、世界のこの分野を引っ張って行かなくてはならない。技術や人材を供給するという意味で世界に貢献できることは多大だよ...。

これは、論文や技術文献に記されたことではなく、たんなる談話あるいは雑談であって、文献の仕分けとしては private talk にもならない、たんなる「お話」にすぎないのだが、そのときはその研究者たちが胸をそらせて語る自負を頼もしく感じたものだった。

思わず出た気の置けない「ホンネ」というところであろう。であるから、このコメントを、挙げ足取りのように、今になって『したり顔で批判するつもりなどさらさらないし、発言したご本人たちも、とっくに忘却しているであろう。

しかし今にして思うと、この言いまわし、どこかで同じようなことを聞いたことがあると思わざるをえない。

そう、世界に冠たる帝国陸海軍、波浪を蹴立てて海原を疾駆する鍛えぬいた艨艟(もうどう=海軍艦艇のこと)、世界最強攻撃精神に横溢した歩兵 ── これらは、まぎれもなくこの国でもっとも優秀とされたひとびとによって声高に唱えられ、そのときのほとんどの国民、政府機関における枢要な地位を占める官僚、そして帝国陸海軍の軍人たちは、こぞって、何の疑問もなくこのことを信じていた。

さらには、この「ひとびと」とは、かつて全国にあった旧制中学で、上から数えて何番以内の「優秀さ」で陸士、海兵(陸軍士官学校、海軍兵学校)に進学し、ときにはさらにその上に位置する、陸軍大学校、海軍大学校に進み、自信と栄誉につつまれ、胸をはって何の疑いもなく大日本帝国陸海軍が世界最強であると信じていたのである。

これが大いなる幻想だったことは、悲しいことに、今や周知のとおりである。

残されたのは、300万人の戦死者、そのほとんどは今なお現地に放置・残置・捨てられたままであり、さらには、ほとんどアジア・太平洋全域にわたる戦禍の跡、国内の主要なあらゆる都市が徹底的に爆撃されただけでなく、二度も原爆で攻撃され、その後の日本の将来を担ったであろうぼう大な数の人材の喪失と悲嘆、多大な血税を浪費して建造された膨大な数の艦艇や航空機、そしてさらに、今に続く近隣諸国からの怨嗟の声 ── これらのことを、あの「ひとびと」は、はたして思い描くことができたのだろうか。
 
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『専門家』とは、ときに、その専門性がゆえに、見るべきものがもっとも見えないことがある。あの原子力工学の専門家たちの『自信』は、そのもっとも顕著な例であろう。

さて、原発は、そのとき、どうなるのであろう? 

専門家によるシュミュレーションを、ぜひとも見たいものである。さあ、早く見せてくれ。

2014/02/23

日本で原発は是か非か ── [1] パラムシル島を襲った巨大津波

25m巨大津波、パラムシル島を襲

戦後間もない1952年(昭和27年)、千島列島北端近くのパラムシル島を、高さ25メートルともいわれる巨大津波が襲った。

しかし、福島原発の建設が決定されたときの検討事項のなかに、この教訓が生かされることはなかった。


 

豪腕零戦パイロット岩本徹三による、パラムシル島地誌

少なくともかつては日本領だったこの島の地誌を記す日本の文献は、きわめて少ない。

そのなかに、あの有名な凄腕零戦パイロット、日本一の撃墜王といわれた、「岩本徹三」 ── 日中戦争から太平洋戦争末期までを、つねに最前線で戦いぬいて生還し、220機以上を撃墜したといわれる ── による、戦中のノートにもとづいて、戦後になって記した手記がある。

岩本はパプアニューギニア・ニューブリテン島にある有名な「ラバウル」で活躍することになる前の一時期、零戦とともに、このパラムシル島に赴任していた。パラムシル島から、東北東の方向にさらに千キロも離れた、当時、日本が占領していた米国領アッツ島やキスカ島を支援するためである。

この地方特有の濃霧や寒冷による悪天候に封じ込められて飛行できることが少なかった岩本らは、勤務のない日には、手つかずの自然のままの同地で、森に分け入ってサケのつかみ取りなどに興じていたらしい。

岩本らの活躍にもかかわらず、アッツ島は、岩本がラバウルへ転勤するため、パラムシル島を去ったあと、米軍の攻撃を受けて奪い返され、日本のアッツ島守備隊は全滅した。

Google の「地図」の「航空写真」の機能を使って、パラムシル島の最南端にある半島を、大きく拡大して見ると、その一郭に、岩本徹三がかつて零戦を駆った滑走路の廃墟の痕跡を、今でもかすかに見ることができる。 

このパラムシル島の北隣にあるのが、日本がポツダム宣言の受諾を宣言した後にもソ連軍との激戦が行われた千島列島最端の、シュムシュ島(占守島)、さらにそれから、カムチャッカ半島へと続く。

アイヌ語で、
幌筵島 (パラムシル島=「広い島」「大きい島」の意)

といわれ、江戸時代、幕府に提出された、北海道を領有した松前藩による地誌に記されこともあるこのパラムシル島では、三度も襲来した巨大津波は、日本統治時代の施設もふくめ、このときすでにソ連領となっていた同地方の6000人の人口のうち、2336人の命を奪った。これ以降、同島の主要な集落や施設は、標高250メートルの山裾に、作られることになった。

 
1945年の終戦までは、シュムシュ島までが、日本領だった。

 

もし25メートルの規模の津波が福島を直撃していれば

 

千年に一度だから、いいのか

千年に一度の自然災害を前提に原発の安全性の是非を論ずることはできない ── これが、1950年代の後半ころから検討が始まった福島原発を策定するときの切り札となった。


「千年に一度...」とは、
貞観地震 (西暦896年、貞観11年)

のときの津波のことを指しているが、北海道を中心として半径千キロの円を描けば、コンパスの半径内に、このパラムシル島と、本州最西端の山口県が入ってくる。

にもかかわらず、福島原発建設のための検討が始まった当時においては、ほんの数年前の出来事である同島でのこの惨劇を検証した形跡はない。

もし、25メートルの規模の津波が福島を直撃していれば、どうなっていたか? 

原発は完全に破壊され、その惨禍と損害は、現実に起こった程度をはるかに越え、想像を絶するものとなったはずだ。ほんのつい最近の過去に、このような大津波があったのにもかかわらず、原発策定のときに、この事実はなぜ検証されなかったのだろうか。

三陸沖地震も、このカムチャッカ津波も、環太平洋造山帯上の地震多発地帯に起きた現象にすぎない。しかも、同島は当時ソ連領といわれてはいたが(現在は、ロシア領)、条約上は当時も現在でも「日本領」といえなくもない。

いわば、離島とはいえ、日本の「内地」で起こったことだったのである。

福島原発建設のとき、三陸沖地震・巨大津波の発生が予見できないはずはなかったのである。


どうなる、南海トラフ地震  


また、最近、報道され始めた近未来に予想される「メガ地震」と原発の対応についても、正面切って論じられることはない。

最悪の場合には32万人が死亡し、さらに34万人の要救助者が出ると政府が試算している「南海トラフ」による地震、津波 ── そのとき、原発はどうなるのか? しかもこれらの数字には、おそらく、放射能被曝・原発避難による被害は計上されていない。

福島原発についていえば、津波到達以前の地震だけですでに原子炉が損傷し、放射能漏れを起こしていたという分析もある。

日本の原発は、かくも危険なのである。


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そして現在でも、このパラムシル島の惨劇と科学的事実が、日本において原発の是非を論ずる際の議論のテーブルに出されることはない。